2013年9月8日(日)、有岡城及び伊丹郷町の第352次発掘調査現地説明会に行ってきました。今回の発掘調査は、JR伊丹駅から350m西にある地点で、伊丹の酒造りの歴史を表す兵庫県最古の町屋でもある「旧:岡田酒蔵(国の重要文化財)」の南側で行われました。
有岡城惣構え
日本最古の惣構えを築いていたと言われる有岡城の遺構は、現在の兵庫県伊丹市周辺から、その痕跡は複数の場所で確認されています。今回の調査に隣接する「ニトリ伊丹店」の建設の時も惣構えの堀跡が見つかっています。
『JR伊丹駅前に公園整備されている有岡城』
戦国期の有岡城は、その東側は伊丹川を挟んで崖となっており、さらにその東には駄六川と猪名川による天然の要害となっていて、防御機構や城下町の建設は西側を中心とされていました。築城したのは、織田信長の家臣で摂津方面を担当していた荒木村重で、村重が天正六年(1578)に信長に反旗を翻したときには、押し寄せる織田軍を幾度も撃退してその防御能力の高さを証明しています。
今回の調査が、過去の調査で発掘された遺構と違うところは、今までの惣構えの堀が、江戸期にも継承された伊丹の町割に沿って築かれていたのに対して、その町割を無視した位置にあるということです。
幅3m・深さ1.5mの堀が38m続いていますが、その直線上で五輪塔などの転用石を礎石とした江戸期の建物が見つかっており、また堀の外側から伊丹の酒蔵の跡である「搾り場」の遺構も見つかったことから、有岡城以前の伊丹城時代(有岡城は荒木村重が伊丹城を改修して改名)のものでは無いかと推測されています。
村重以前の伊丹城主というのは、鎌倉時代から摂津国川辺郡(現在の伊丹市・川西市と宝塚市・尼崎市・三田市の一部)を中心に勢威を誇った伊丹氏で、織田信長時代には摂津三守護に任じられており、有馬街道や京、西国を結ぶ交通の要衝であった伊丹の地は伊丹氏が勢力を広げていく根拠地であったのです。
だからこそ、伊丹氏は城郭の防御を固めるだけではなく、その財力の基盤となる城下町に惣構えを築いたのであり、伊丹氏没落後は、村重が引き継いで完成させたと言えます。
『江戸期の酒蔵跡の下から惣構えが発掘された』
『江戸期の酒蔵』
『五輪塔も出土』
『第352次調査の出土品』
有岡城の砦群
この有岡城は惣構えで城下ごと防衛していましたが、さらにそれらを補完する軍事施設として、いくつの砦を広範囲において築いており、より一層守りを強固なものとしていました。
【上臈塚砦】
現在の伊丹シティホテル周辺に築かれており、遺構は消滅しています。荒木村重が織田信長に反旗を翻した時には、家臣の中西新八郎が守っていましたが、信長配下の滝川一益の調略によって開城。墨染寺には落城時に命を落とした女性や子どもを供養する女郎塚があります。
『上臈塚砦は伊丹シティホテル付近から墨染寺あたりまでと推定されている』
【岸の砦】
「信長公記」では、北の砦と表記されています。荒木村重が織田信長に反旗を翻したときに、家臣の渡辺勘大夫が守っていましたが、信長軍の猛攻によって落城。現在は猪名野神社であり、境内に土塁が残っています。
『岸の砦は現在は猪名野神社』
『境内には土塁が残っている』
【鵯塚砦】
有岡城主・荒木村重が織田信長に反旗を翻したときに、家臣の野村丹後守が雑賀衆と共に守っていましたが、信長配下の滝川一益による調略によって上臈塚砦が降伏、岸の砦も落ちると降伏開城をなりました。現在の「ひよどり広場」付近ですが、私有地のために遺構は確認出来ません。
『鵯塚砦は私有地の為に遺構は確認できない』
おわりに
有岡城がある伊丹市は関西有数の都市として市街地が開発されており、城跡や城下町の発掘調査は困難しているのが現状です。しかし、戦国初期の惣構えを有した同城は城郭史・戦国史の中でも貴重な位置づけであり、今後の調査に期待したいですね!
『今回の調査場所と有岡城周辺砦』
有岡城第352次調査によって惣構えの堀等が見つかるが、過去の調査と違い、江戸期の町割に沿っていないことから、伊丹氏の時代のものと推定。調査後は埋め戻される。
国人・伊丹氏が織田信長によって逐われた後、荒木村重が居城として城下町や総構えを整備した。駅前に城跡公園として一部復元されている。
有岡城は西側が天嶮に守られていたので西側に岸の砦・上臈塚砦・鵯塚砦を築いて防御を固めていた。岸の砦は、有岡城主・荒木村重が織田信長に反旗を翻したときに、家臣渡辺勘大夫が守っていたが、信長軍の猛攻によって落城した。現在は猪名野神社となっており、境内に土塁が残っている。
有岡城は西側が天嶮に守られていたので西側に岸の砦・上臈塚砦・鵯塚砦を築いて防御を固めていた。上臈塚砦は現在の伊丹シティホテルから墨染寺付近と推定されるが遺構は消滅している。荒木村重が織田信長に反旗を翻した時には、家臣の中西新八郎が守っていたが、信長配下の滝川下一益の調略によって開城した。墨染寺には落城時に命を落とした女性や子どもを供養する上臈塚がある。
有岡城は西側が天嶮に守られていたので西側に岸の砦・上臈塚砦・鵯塚砦を築いて防御を固めていた。鵯塚砦は、有岡城主・荒木村重が織田信長に反旗を翻したときに、家臣野村丹後守に雑賀衆と共に守らせていた。しかし、信長配下の滝川一益による調略によって上臈塚砦が降伏、岸の砦も落ちると、降伏開城した。現在の「ひよどり広場」付近だが、私有地のために遺構は確認出来ない。