現在活躍されているブロガーさんたちと同時期に開始したこのブログ。当初は「1年で100記事を目指すぞ!」と意気込んでいたものの、気がつけば昨年の8月6日を最後に5ヶ月もの間放置していました(^_^;)
城めぐりや旅行に行けなかったわけではないのでネタは貯まってはいるのですが、ネトゲにはまっていた子どもが小学生となり、一緒に過ごす時間がどうしても増える中では、なかなか自分の時間が取れませんでした。
このままでは、なんとなくダラダラと放置プレイが続いていきそうなので、ここは一つアクセスが伸びる大河ドラマネタでもアップしてみようかと思います。ひさしぶりのネタは昨夏に訪れた伊豆半島南端の街・下田。日米和親条約の舞台となった幕末開国の地であります。
玉泉寺
海水浴シーズン(訪問時2014年8月)の渋滞に苦労しながら到着した下田にて、最初に訪れたのが玉泉寺。日本史でもおなじみのタウンゼント・ハリスが日本初のアメリカ合衆国総領事館を構えた場所です。
400年の歴史を有する曹洞宗の古刹で、嘉永七年(1854年)3月に日米和親条約の締結により下田が開港、同年5月に改定下田条約が結ばれると、玉泉寺はアメリカ人の休息所兼埋葬所となりました。
2年後の安政三年(1856年)、タウンゼント・ハリスが総領事として、通訳官ヒュースケンを伴い下田に着任しました。ハリスは玉泉寺を日本最初の米国総領事館として開設、日露和親条約の交渉の場となり、ロシア、ディアナ号高官の滞在や、ドイツ商人ルドルフの滞在など、開国の歴史に深く関わった寺となったのです。
境内には、総領事館跡の碑や日本初屠殺場(アメリカ人への食肉提供の為)の他、ペリー艦隊の乗員5名の墓地とディアナ号乗員3名、アスコルド号乗員1名の墓地があります。
玉泉寺境内にアメリカ国旗が掲揚された日にハリスは、
旗棹が立った。水兵たちがそれを廻って輪形をつくる。そしてこの日の午後2時半に、この帝国におけるこれまでの『最初の領事旗』を私は掲揚する。厳粛な反省一変化の前兆一疑いもなく新しい時代がはじまる。敢て問う、真の日本の幸福になるだろうか?
と記しています。まさに現在の日米の関係が良くも悪くも始まった日といえるでしょう。幕末史にさほど知識の無い私でも、そう思うと何か不思議な感覚にとらわれる場所でした。
『玉泉寺山門』
『玉泉寺』
『日本初のアメリカ総領事館の碑』
玉泉寺の周辺地図
吉田松陰渡航企ての地
玉泉寺を南の海岸線へ向かうと、幕末の思想家で、松下村塾(現在の山口県萩市)にて数々の志士に影響を与えた吉田松陰がアメリカへの渡海を企てた地に着きます。
嘉永七年(1854年)三月二十七日、長州藩・吉田寅次郎矩方(号は松陰)と弟子の金子重輔は、2度目の来航となるペリー提督率いる蒸気船三隻、帆船六隻、俗に言う黒船に弁天祠があることから弁天島と呼ばれていた浜より小舟にて向かいました。
この渡航強行前に、松陰は上陸中のアメリカ人に渡米嘆願の交渉に成功していたのですが、夜になっても迎えのボートが来なかったことからの決行でした(交渉が成立していたと思っていたのは松蔭だけで、相手のアメリカ人は適当にあしらっていただけなのでしょうか)。
停泊していたミシシッピー号に辿り着いた松蔭は、ここでも「旗艦ポーハタン号に行け!」とたらい回しにされたあげく、通訳官のウイリアムズに日本の法を破ってまで連れては行けないと拒絶されて、同船の乗務員により元の浜へと送り返されたのでした。
現在、松蔭が渡航を企てた弁天島の西に建設された公園には、「踏海の朝」と題した吉田松陰と金子重輔の銅像が建っています。この時、松蔭は25歳! 私などは合コンに明け暮れていた日々ですよ・・・・・ 是非はともかく、その強靱な意志には感服です。
『吉田松陰渡航企ての地』
『吉田松陰・金子重輔の像』
『三島神社内にある吉田松陰像』
吉田松陰渡航企ての地の周辺地図
吉田松陰寓居処
その松蔭師弟が渡航前に寓居していたのが、下田市中心街よりやや北にある旧村山邸。皮膚病を患っていた松蔭が、治療に良いと立ち寄った蓮台寺の温泉にて、医師である村山行馬郎と出会い、その邸宅にて機会を伺うことにしたのでした。
現在も静岡県指定文化財「吉田松陰寓居跡」として、わら屋根の造りをそのままに保存されていて、松陰の居間として使われた部屋(隠れの間)や浴槽もそのままに、松陰が使ったと伝えられる机や硯箱なども展示されています。(開館時間9時~17時 定休日:水曜 有料 要確認)
『吉田松陰寓居処は当時のままに保存されている』
吉田松陰寓居処の周辺地図
下田奉行所
下田に奉行所が置かれたのは、元和元年(1615年)に、徳川秀忠が江戸大阪航路の中継地点として須崎の地に遠見番所を置いたのが始まりで(同地には石柱がある)、以後3度にわたって廃止と復活を繰り返しています。
江戸時代後期にはあまり重要視されていなかった下田の地でしたが、日米和親条約締結後にペリー提督が下田へと上陸した嘉永七年(1854年)以後、再び脚光を浴びることとなり、宝福寺ついで稲田寺に仮の奉行所が設置されて、翌安政二年(1855年)に中村屋敷と呼ばれた現下田警察署の東あたりに移転しています。
奉行も二人制となり、伊沢政義(美作守)と都筑峯暉(駿河守)が任に着いて、通訳を含む140人もの大所帯だったといいます。
万延元年(1860年)に横浜港が開港すると、わずか6年の歴史に幕を閉じましたが、日露和親条約の批准や日米協約の調印など、幕末開国がまさに行われた場所でもあったことは間違いありません。現在も奉行所と同等の機能を有する警察署が跡地にあるのが面白いですね。
『下田奉行所の跡は現在も警察署である』
下田奉行所の周辺地図
了仙寺
下田の中心街を少し南へと行くと、ペリー提督が幕府との間に結んだ日米和親条約改定下田条約を締結した了仙寺があります、開国殿とも呼ばれている国指定史跡でアメリカジャスミンの名所でもあります。宝物殿も一見の価値ありです。(開館時間:8時30分〜17時(入館は16時40分まで) 休館日:8月1~3日 12月24~26日 有料 要確認)
『了仙寺』
了仙寺の周辺地図
安直楼
「唐人お吉物語」として、小説にもなったハリス領事と芸者お吉の恋。献身的な看病や異国人との恋愛悲話ですが、実際のお吉の物語とは違うようです。
ハリスは、18歳のおさよという娘をはじめとして、自分の通訳官であるヒュースケンの妾にも手を出すスケベ親父だったようですが、お吉に関してはたったの3日で暇を出しているのです。
手切れ金30両を受け取った時には、うち12両を借金の差し押さえとして下田奉行所に取られたお吉は、派手な生活を好むプロの芸者だったのではないでしょうか。安直楼を2年で潰したお吉はその後、明治二十四年(1891年)に増水した河川に入水して亡くなります(事故か自殺かは不明)。
お吉の死後も寿司屋として長く続いた安直楼は、現在も数奇なお吉の人生を考えさせられる場所になっています。
『安直楼』
安直楼の周辺地図
長楽寺
安直楼のすぐ南には、日露和親条約の調印や批准書の交換が行われた長楽寺があります。境内にはお吉観音を祀る宝物館(有料 要確認)や悲恋のおすみ弁天なども見学できます。周辺の道路は狭いのですが、長楽寺に駐車スペースがありました。
『長楽寺』
長楽寺の周辺地図
ペリー提督上陸の地
日米和親条約改定下田条約締結を目的に来航したペリー提督が最初に上陸したとされる地には、提督の銅像が史跡公園として整備されています。すぐ側には戦国時代に同地を支配していた小田原北条氏の下田城があり、同時代にも水軍の拠点として機能していたのでしょう。
『ペリー提督上陸の地は公園整備されている』
ペリー提督上陸の地の周辺地図
吉田松陰拘禁の地
アメリカへの渡航に失敗した後に下田奉行所へと自首したを吉田松陰と金子重輔が、奉行所の命によって拘禁された宝光院長命寺の跡地には石碑が建っています。長命寺は廃寺となっており、現在は下田市立中央公民館となっています。
『渡海に失敗した吉田松陰が拘禁されていた地には石碑が建っている』
吉田松陰拘禁の地の周辺地図
おわりに
鎖国から開国へと揺れた幕末、その最初の舞台となった下田には数多くの幕末開国史跡があります。残念ながら、今回の旅では渋滞と祭りによる時間のロスと悪天候により、予定していた史跡全部を訪れることはできませんでしたが、機会をみつけて再訪したい街ですね。幕末関連史跡以外にも、伊豆で屈指の遺構が残る下田城もありますし、是非、下田に宿泊して史跡めぐりを楽しむのをオススメいたします。