豊臣政権の奉行として辣腕を振るった石田三成(1560~1600年)は、慶長五年(1600年)の関ヶ原合戦にて敗れた後、京の六条河原で処刑されました。日本史の授業で習うこの事実はよく知られたところです。
三成の嫡男・重家は出家しており、大名としての石田家は途絶えました。しかし、三成の子どもたちは誰一人として処刑されることがなく、江戸時代を通じて各方面へとその血筋が広がっていったことはあまり知られていません。
津軽氏と三成
三成の血筋を伝えた家といえば、奥羽弘前藩を興した津軽氏がまず挙げられます。戦国の梟雄として血なまぐさい人生を送った藩祖・津軽為信ですが、豊臣秀吉の奥羽仕置きをきっかけにして三成と縁を持ち、関ヶ原合戦時には嫡男の信健(三成が烏帽子親)を三成方に送り、敗戦時には三成次男の重成を脱出させて匿っています。
重成の家系は代々、弘前藩の家老を務める家となり、さらには分家として五百石の重臣・石田掃部家をはじめ、多くの弘前藩士を輩出して栄えました。この杉山家が津軽氏の重臣として続いた話は三成ファンの間ではよく知られているところですが、その他にも三成の娘婿である山田勝重の系統も弘前藩に仕えています。
三成の長女が嫁いだ山田勝重は、松平忠輝の家老として二万石という大名並みの知行をしていました。忠輝の改易により浪人をしますが、次男・富岡武兵衛、三男・山田彦兵衛が津軽氏により弘前藩へ招かれて重臣に列していて、特に彦兵衛の系統は七百石の城代という重用ポストを任されています。三成と津軽氏のつながりは三成死後も続いていたということですね。
『津軽為信(長勝寺蔵)』
辰姫と弘前藩
三成の次男・重成、長女の孫である富岡武兵衛、山田彦兵衛は、弘前藩の重臣として血を残していきましたが、それ以上に弘前藩における三成の血を象徴するのが三成の三女である辰姫でしょう。辰姫は、関ヶ原合戦にて三成が処刑された後、高台院(北政所・寧々)に匿われてその養女となり、弘前藩の二代藩主である津軽信枚に嫁ぎます。
高台院の養子となったのは、高台院の執事であった孝蔵主と三成が遠戚関係であるなど、二重三重の縁で結ばれていた高台院と三成の緊密さを表すものであり、「北政所・加藤清正・福島正則vs淀君・石田三成」という構図は、小説等の影響を受けた世間が創り上げたフィクションであるということなのです。
弘前藩に広がった辰姫の血
辰姫と津軽信枚の仲は睦まじく、三代藩主となる信義を生みます。後には江戸幕府より送りこまれた満天姫(徳川家康養女)に遠慮して、飛び地である大館(群馬県太田市)にて一生を終えますが、信枚は参勤交代の旅に大館に立ち寄り平穏な安らぎを得たと伝わっています。
津軽藩では、第三代の信義以降に辰姫の血が続き、分家である旗本・黒石津軽家(後に大名となり黒石藩)や家老の津軽百助家にもその血が伝わります。特に黒石津軽氏は、徳川の血を引く満天姫の嫡男・信英が興した家なので、津軽の地で辰姫の血は三成のリベンジを果たしたことになります。
弘前藩は九代・寧親が黒石藩よりの養子ですが辰姫の血筋です。十一代で他家(大河内松平氏)より養子が入りますが、その後には辰姫血筋の承祐が入ります。残念ながらここで津軽本家での辰姫の血は途絶え、黒石津軽氏も明治初期には辰姫の血筋は途絶えてしまいました。
大名家に広がる辰姫の血
弘前藩以外にも辰姫の血は広がっており、交代寄合の那須家や忠臣蔵で浅野家に同情的だった旗本として有名な多門伝八郎家、上級旗本の杉浦家などにも伝わりますがいずれも途絶えています。また、仙石家(出石藩分家の旗本か?)や伊達家(仙台の伊達家とは別系統?)、黒石家(弘前の在地領主の系譜を引く家臣か?)など、記録では追いきれない男系もあります。
女系では小浜酒井家や龍野脇坂家などに広く伝わり、幕末の老中・板倉勝清や財閥・三菱家にもその血は残っています。これ以外にも三代藩主・信義は五十人を越える子だくさんでしたから、家臣筋など記録に残っていない子孫も数多く存在するのでしょうね。
辰姫の墓
東楊寺
群馬県太田市にある東楊寺は、江戸時代に奥州弘前藩(津軽氏・四万七千石)の飛び地支配である大館陣屋に隣接して建立されており、境内には大館陣屋の留守居役を代々務めた足立氏の墓と共に辰姫の墓があります。墓は後に改葬されて、青森県弘前市の貞昌寺にもあります。
『東楊寺』
辰姫の墓
辰姫の墓は、大館の地が津軽藩支配から天領(江戸幕府の直轄地)へと変わる時に津軽藩関係者をまとめて移葬したので、墓碑が密着して並んでいます。
「貞松院殿深誉教総大姉」が辰姫の諡号ですが、後に息子である津軽信義が、弘前に改葬したときには、信枚が天海僧正の弟子という関係から天台宗式の戒名「荘厳院殿果諗宗吟大姉」と改められています。
『12基あるうち奥から3基目の墓碑。辰姫の墓という案内表記はありません』
『元和九年没 「貞松院殿深誉教総大姉」』
信枚は三成の娘が正室ということが目障りな江戸幕府によって、その態度を試すかのように徳川家康の養女(実の姪)を正室に押しつけられます。幕府や家康に気兼ねする重臣は次男の信英(養女・満天姫の子・家康の義理の孫)擁立しようとしましたが、信枚は断固として自分の意志を曲げず、三代藩主には辰姫の子である信義に継がせます。
現地を訪れて気にかかったのは、説明板の「石田三成」という文字が、なぜか後から消されていました。研究による新見解があっての削除なのか、それ以外の意図があるのかは不明ですが、明治時代に東京大学の渡辺世祐先生による三成論見直しから100年以上経った現在でも、まだまだ三成復権は一般的では無いと感じさせるものです。
『三成の名前が削られている』
東楊寺の周辺地図
石田三成の娘である辰姫の墓がある。
おわりに
墓石に刻まれた元和九年に没した辰姫は、今も群馬の地で静かに眠っています(墓は改葬されて弘前にもある)。関ヶ原の敗者として歴史に消えた三成ですが、その血筋は敵対した徳川家にも入っていき、江戸時代を通じて大いに広がりました。そして、戦国の英傑である織田信長や名将・明智光秀の血と混じり合いながら現在の皇室へとも繋がっていくのです。
『皇室へと続く三成の血(クリックして拡大できます)』