【戦国】荒木村重の謀反が信長のプレッシャーに追い詰められたからというのは後世の勝手な思い込みではないか?

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 大河ドラマ「軍師官兵衛」有岡城での幽閉シーンもいよいよ佳境に入り、次回放送(2014年6月1日)の予告編では荒木村重が妻子や家臣を置いて自分だけが助かろうと見苦しく逃げるシーンが出ていましたね。しかし、この有名なシーンは多くは後世で歴史の結果を知っている側が創ったものであり、本当に村重はあそこまで追い詰められていたのでしょうか?

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荒木村重という男

 村重の出自は摂津の有力国人である池田氏の家臣。池田氏の一族である池田長正の娘を正室に迎えるなど、家中では重きをなしていました。ちなみにとても魅力的な女優さんである桐谷美玲演じる「だし」とは、二十歳も離れており、継室であったと考えられます。嫡男の村次もだしの子ではないでしょう。

荒木村重肖像画
『村重の肖像画、信長の剣先に刺さった餅を食べるシーンの由来』

 早くから織田信長に服した池田氏の当主・池田勝正「摂津三守護」と称されており、後に室町幕府から摂津の守護に任じられます。あまり知られてはいませんが、浅井長政の裏切りによって窮地に陥った信長が京へ生還した「金ヶ崎の退き陣」では殿を務めています。この退き陣は豊臣秀吉の出世話として有名ですが、実質的な殿の総大将は最大兵力にあたる三千の兵を従えていた勝正であったのです。

 信長からは重用された勝正ですが、次々と下される軍役の負担や隣接する三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)からの圧迫などに家中が動揺、信長支配権の西を任せている池田氏が浅井・朝倉氏に組みすることを恐れた信長は勝正の処分を検討します。

 この動きをいち早く察知した村重は義兄弟(正室の兄)である池田知正を擁して勝正を追放、同じく摂津三守護であった和田惟政を滅ぼします。さらに用済みになった知正を追放してした後に、残る摂津三守護の伊丹氏を伊丹城に滅ぼして、伊丹城を拡張した有岡城主として信長の重臣の一人に収まります。

 まさに戦国乱世を絵に描いたような武将ですが、この野心深い男が天正六年(1578)に信長に対して謀反を起こしたのは、「自分も使い捨てられる」というプレッシャーだけだったのでしょうか?

殿荒木村重墓『池田市歴史民俗資料館に保存されている伝荒木村重墓』

 

村重の謀反によって信長包囲網西方ラインが完成

 京を抑えた織田信長は、たしかに天下人へ一番近い大名ではありましたが、その勢力圏は畿内と東海、越前や播磨の一部に過ぎず、長引く本願寺との戦い次第では政権が崩壊する可能性は十分にありました。そのような中で荒木村重が信長を裏切るということは、同じく信長に対して反旗を翻していた三木城の別所氏と共に山陽道を完全に掌握し、信長を窮地へと追い込むことにもなったのです。

 下記の図のように有岡城〜尼崎城〜花隈城と摂津の要所に城を構えた村重が反信長陣営に寝返ることにとって、山陽道や有馬から西への街道は封鎖されることになり、毛利水軍が制海権を持っている瀬戸内がある限り、摂津以西への援軍は困難になります。

 同時期には丹波の波多野氏や丹後の一色氏も反信長陣営となっており、村重を放置するということは播磨を捨てるだけでなく、毛利方からの補給路を断つことが出来なくなり、信長にとってはかなり深刻な状況であったと言えます。村重もまた、そのような自分が置かれている価値をよく知っていたのでしょう。戦国の怪僧・安国寺恵瓊の誘いに毛利方へ自分を高く売り込んで、さらに強大な地位を手に入れる。野心が原動力の戦国武将としては当然の行動です。

 村重が妻子を置いて逃げたと表現される有岡城脱出ですが、制海権を抑えながら動きが止まった毛利軍の大将である桂元澄尼崎城へ駐屯しており、当主自ら催促をしに行ったとの説もあります。村重が有岡城を出た段階では西方への防衛ラインはまだ崩れてはおらず、最前線まで出てきている毛利軍さえ動けば勝敗がひっくり返る可能性が残る状況での行動は、単純に「逃げた」と評価を決めつけてしまうのは早計だと思います。

荒木村重の勢力圏

荒木村重が築城。石垣造りの城であったが、村重が信長に謀反を起こした際に落城、兵庫城が築かれると廃城になった。
http://jibusakon.jp/history/sengoku/araki

戦国時代に荒木村重が使用していた城跡に江戸時代に戸田氏が入部して近世城郭となる。現在は公園。
http://jibusakon.jp/history/sengoku/araki

国人・伊丹氏が織田信長によって逐われた後、荒木村重が居城として城下町や総構えを整備した。駅前に城跡公園として一部復元されている。
http://jibusakon.jp/history/sengoku/araki

 

 村重が拠点としていた有岡城〜尼崎城〜花隈城と山陽道を遮断しています。村重の勢力圏は国道2号線や山陽新幹線など現代でも交通の大動脈であり、有馬から西へ向かう街道を抑える三木城の別所氏が反信長陣営に寝返っていたので、村重の謀反により畿内より西は完全に信長勢力圏から離れます。それだけに村重の存在は、毛利氏や本願寺にとっては最も重要だったと言えるのです。

尼崎城『尼崎城や花隈城は市街地に埋もれていて当時の面影はまったくない』

おわりに

 歴史の結果を知っている私たちは、敗北という結論と天下人となった信長の姿だけを見て村重の評価を下げていますが、村重の謀反は毛利氏や本願寺が形成する反信長陣営の西方ラインを完成される「要の一手」であり、羽柴秀吉明智光秀の台頭によって少々頭打ちになった村重の野心を叶える絶好の機会だったと考えます。

 村重にとって誤算だったのは、共に謀反をした高山右近中川清秀が早々と裏切ることにより、防衛ラインの厚みが薄れたことや、毛利水軍や毛利方諸将の予想にしなかった優柔不断な態度であったことでしょう。しかし、それはあくまで結果論であり、有岡城脱出に重きを置いて評価すると歴史を見誤ってしまうことになるかもしれません。今一度、再評価が待たれる人物ですね。

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