グスクめぐりその3です。
グスクめぐりの2日目は、安慶名グスクからスタートです。世界遺産に認定された5つのグスク(中城城・勝連城・座喜味城・今帰仁城・首里城)に比べて規模こそ小さいですが、城好きの心をくすぐる素晴らしい遺構を見ることが出来ます。
安慶名城
安慶名グスク(アゲナグスク)は石灰岩から成る独立丘陵を中心に築かれていて、かつては城の東北を天願川が流れており、天然の堀の役割を果たしていました。天願川は大川とも呼ばれることから、この城を居城とした安慶名按司を大川氏、安慶名グスクは大川グスクとも称されることもあります。
沖縄本島のグスクは、その多くが曲輪が連続する連郭式ですが、安慶名グスクは城内と外の曲輪からなる輪郭式城郭というのも特徴です。また、城壁に狭間(銃眼)があるのはこの安慶名グスクと中城城だけです。この狭間については、奥行きが深いことから銃火器を使用するためのものではなく、玉城グスクのアーチ門のように、太陽の道を通す宗教的な意味合いだという説(上里隆史氏)や、付近の小高い丘に向けて開いており、中国から伝わったハンドキャノン「火矢(ヒヤー)」を用いるための軍事目的だという説(藤井尚夫氏)など諸説があります。
グスクの麓を取り巻く城壁は原形をよく残していて、自然石をくり抜いて作られた城門は見る者を圧倒します。城内には安慶名氏の本家筋にあたる今帰仁城や伊波グスクに向かっての遙拝所があり、グスクの守護神クニヅカサの御イベが祀られています。また、隣接する丘は「トングワ森」と呼ばれていて、この城を築城したときの炊事場だったと伝わっています。
城主の安慶名氏は、周辺の具志川、天願、喜屋武、屋良にもグスクを築いて勢力を伸ばしましたが、権力の拡大を警戒した琉球王朝によって滅ぼされました。このときの戦いにおいても、首里王軍に囲まれてもビクともしなかった堅固な安慶名城でしたが、城内に井戸が無く堀の役割を果たしていた天願川が水場でもあるということを首里王軍に悟られた結果、水路を断たれて落城したと伝わっています。
発掘調査はまだ実施されていませんが、城内からは中国陶磁器なども見つかっていて、麓を取り巻く城壁も良好に残っています。規模こそ世界遺産のグスクに比べて小さいものの、息を呑むような衝撃を受ける遺構ということは間違いないでしょうね。
『安慶名グスク遠景』
『虎口』
『安慶名按司の墓』
『グスクを取り巻く城壁は原形をよく残している』
『狭間(銃眼)』
安慶名城の周辺地図
慶名按司の居城。安慶名氏は周辺の具志川、天願、喜屋武、屋良にもグスクを築いて勢力を伸ばしたが、警戒した琉球王朝によって滅ぼされた。内と外の輪郭式であり、麓を取り巻く城壁は世界遺産の5グスクに次ぐ見事な遺構。
公園内には安慶名闘牛場もあります。古くから沖縄で「ウシオーラセー」として親しまれてきた闘牛。石川多目的ホールが完成してからはこちらの闘牛場での定期開催は無くなりましたが、不定期開催の日程にあわせて行くのも見学するのもオススメです。
『闘牛場』
伊波グスク
安慶名グスクから北西に位置する伊波グスクは、中北山時代の北山王である今帰仁世(?〜1304年?)が滅んだときに落ち延びた子の流れを組むという伊波按司の居城で、単郭のグスクですが石積みや虎口でしっかりと固められています。
このグスクは東北側が断崖絶壁の要害であり、東南側の城跡には自然の石灰岩に石垣を積んで物見台としています。伊波グスクからは沖縄東部の平安座島・宮城島・伊計島などを遠望することが出来、見張り場としての機能があったのでしょう。4カ所の拝所は、中央が「火の神」で東側には「森城嶽(オソクツカサ神の御イベ)」が祀ってあります。
伊波氏は、一度は怕尼芝(?〜1395年)によって北山王の座を追われた亡国の末裔でしたが、この伊波グスクを拠点に、子孫は華麗なる一族と呼ばれて、勝連按司や安慶名按司、玉城按司など沖縄本島各地の有力領主たちの祖となっています。琉球の戦国史上で著名な護佐丸(?〜1458年)や阿麻和利(?〜1458年)も、元を辿ればこの伊波グスクの主であった伊波氏にたどり着くわけです。この北山王ゆかりの伊波グスクを見学してから、その本拠であった今帰仁城へと向かいます。
『グスク縄張図(現地案内板より)』
『虎口』
『物見台』
『主郭』
『曲輪を取り巻く石垣』
伊波グスクの周辺地図
美里グスクとも。県指定史跡。伊波按司の居城。単郭だが石積みや虎口がしっかりと残る。城址碑や説明板の他、3カ所の拝所がある。
おわりに
世界遺産認定グスクを中心に計画を立てて、中城城や勝連城などから今帰仁城へ向かうと、安慶名城や伊波グスクは見落としがちになります。しかし、当時の城壁の姿を良好に残している両グスクを見逃して帰るのは非常にもったいないですので、是非足を伸ばしてみてください。
この記事は続きます。