現在、旧ブログよりGoogle先生のペナルティ期間が終わった記事を、少しずつ順番に再UPしています。(※注1)
今回の再UP記事は、2012年8月後半に巡った石垣島を含む八重山諸島への城めぐり記事です。豊かな自然やダイビングスポットとして人気の八重山諸島ですが、同じ沖縄県でも、琉球王朝によって苛烈な搾取をされたという歴史を持つことはあまり知られていません。琉球とはまた違った歴史を持つ八重山の史跡を紹介したいと思います。
八重山の歴史
八重山の先住民
日本の南西に位置する先島諸島の中でも、もっとも台湾に近い八重山諸島は、世界でも強力な部類に入る黒潮の始点でもあります。南太平洋で発生した暖流が、バシー海峡と与那国海峡を抜けて合流し、東シナ海を北上するこの島々は、多くの文化が行き交う「海の道」であり、古くは東南アジアやインドネシア諸島から多くの人々が流れ着いています。
同じ黒潮文化の洗礼を受けた薩摩・日向の先住民族である隼人・熊襲と同じく、インドネシア諸島の「竹の文化」を持つイバン族や、南太平洋の「土器を用いない文化」を持つポリネシアの流れを組む人たちが八重山諸島に住む先住民族であったと考えられます。
群雄割拠の時代
中世の八重山諸島は、琉球王朝の影響を受けつつも独自の勢力を保っており、倭寇の拠点と考えられる遺跡も何カ所かあります。また、各島にそれぞれの勢力を持った豪族達が乱立する戦国時代でもあり、石垣島には石垣を根拠とする「長田大主」と大浜を根拠とする「オヤケアカハチ」、竹富島を根拠とする「西塘」、西表島を根拠として、石垣島の「平久保加那」を滅ぼした「慶来慶田城」、波照間島を根拠とする「明宇底シンカ」、与那国島を根拠とする「サンアイイソバ」とその与力で剛勇の誉れが高い「鬼虎」などがいました。
これらの島主たちは、互いに牽制しながら勢力を保っていましたが、八重山諸島を支配下に置こうと企てる琉球王朝の第二尚氏3代・尚真王による外圧に対して、恭順派と独立派に別れて対立していきます。
琉球王朝の支配下へ
波照間島出身ながら、石垣本島へ進出して一大勢力を築いた幼なじみのオヤケアカハチと長田大主はこの時期に対立、アカハチは長田大主を西表島へ追い、波照間島の明宇底シンカを滅ぼします。
同時期に与那国島では、鬼虎がサンアイイソバに反旗を翻して独立。ここに、独立派の「オヤケアカハチ・鬼虎」と恭順派の「慶来慶田城・長田大主・西塘・サンアイイソバ」連合軍との合戦となり、宮古島の仲宗根豊見城率いる琉球王朝の応援を受けた恭順派が勝利し、アカハチ・鬼虎は滅亡しました。
その後の八重山諸島は、西糖が首里大屋子(代官)として統治を行いますが、人頭税による搾取や薩摩藩と琉球王朝による二重支配に苦しみながら明治維新を迎えたのです。
八重山諸島を訪れる
八重山諸島史跡めぐりの注意点
現在、八重山諸島の中で有人島なのは、
- 石垣島
- 竹富島
- 西表島
- 由布島
- 鳩間島
- 小浜島
- 黒島
- 新城島(上地島・下地島)
- 波照間島
- 与那国島
であり、日本最西端である与那国島は、飛行機の便数も少なく、他の島々とワンセットで行くには時間的に厳しいので、別に考えた方が計画が立てやすいです。
石垣島・竹富島・西表島・小浜島・黒島は、内海となっており、船の便数も多く、台風が直撃しない限りは欠航になることは少ないです。私が行ったときには、沖縄本島に大型台風が上陸していましたが、石垣島周辺は良い天気であり、これらの島への船が欠航することはありませんでした。
逆に、鳩間島・波照間島の外海は、すぐに波が高くなるために欠航率も高く、波照間島にいたっては、7月~10月の欠航率は90%の時もあり、私が行った半月前には、一週間も船が出ずに島に閉じ込められた観光客もいたそうですが、宿の人によると波照間島で天気が荒れた場合、最低2~3日、長いときで1週間から10日の足止めは覚悟しないといけないようです・・・・。
知らなかったとは言え、勢いだけで船に乗って、無事に帰ってこられた私は運が良かっただけと言えます。また、新城島への定期便は無く、ツアーやチャーターのみとなりますが、多くは最低人数2人以上だそうで、今でも島外不出の祭りなどがある新城島は、史跡見学などにはかなりの注意が必要なようです。
石垣島へ
関西空港から飛行機で2時間半、石垣島へ到着するのが正午近く。市街中心部へはすぐなので(※注2)、レンタカーは借りずにタクシーで移動、八重山そばで有名な「のりば食堂」で昼ご飯。
『のりば食堂』
バス停の側にあるからと名付けられたこの店の八重山そばは、沖縄のソーキソバに似ているものの、ソーキソバよりもあっさりしていて食べやすく、そばにはウコンが練り込んでありました。
『あっさりしてオススメ』
のりば食堂の周辺地図
ナンツィアムリィ
のりば食堂から、離島ターミナルへ向かう途中に、火番盛の1つであるナンツィアムリィがあります。
国指定史跡である「先島諸島火番盛」とは、江戸時代末期に、薩摩藩の要請を受けた琉球王朝が、異国船監視の目的で設けた番所であり、各島に狼煙台的な番所が置かれていました。「火番盛(ヒバンムイ・ヒバンムリィ)」とは、現地での言葉に対する当て字であり、文献上は「遠見番所」が正しい名称です。
このナンツィアムリィは、石垣島内に設けられた狼煙台の一つであり、明治期までは遺構が残っていたそうですが、現在は住宅開発によって消滅しています。
『ナンツィアムリィは住宅開発によって消滅している』
ナンツィアムリィの周辺地図
天川御嶽
日本最南端のコンビニを過ぎて、さらに離島ターミナルへと歩くと「天川御嶽」があります。御嶽(うたき)とは沖縄での祭祀場所です。
『日本最南端のコンビニ』
八重山諸島では、「うたき」とは言わず、「おん」と呼び、土着の神以外に、渡来神(沖縄や本土などの神)が数多く祭られているところが、沖縄本島とは違う特徴です。また、沖縄本島以上に神聖な場所に対する意識は高く、観光用の看板が設置されていますが、あまり興味本位で見学はしない方が良いでしょう。
『天川御嶽』
天川御嶽・最南端コンビニ周辺の地図
八重山蔵元
八重山歴史博物館には、フルスト原遺跡などからの出土品が展示されていますが、このあたりに琉球王朝の八重山支配の拠点であった八重山蔵元がありました。
『明治期まで残っていた蔵元の古写真(現地案内板より)』
蔵元とは、江戸幕府の代官所と同じような行政と租税などを担当した役所です。尚真王の八重山征服に功績のあった竹富島の西塘が、1524年に竹富大首里大屋子の頭職に任じられたのを最初として、石垣島・宮古島・久米島に設置されていました。
石垣島の蔵元は、当初は西塘の本拠地で会った竹富島へ設置されていたのですが、大きな港湾が無いという理由から石垣島の大川へと移転しています。この大川の地は、宮良の有力按司であった石垣永将が、1634年に処刑された八重山キリスタン弾圧事件後にその屋敷を没収して蔵元を設置したと伝わっています。
蔵元の組織としては、島の有力按司などを「頭・方・座」という役職につけ、中央からは在番という形で役人を派遣していました。江戸幕府でいうと現地の「代官・手代」に 幕府から目付が派遣されていたというところでしょうか。また、蔵元から各村や島へは「首里大屋子(しゅりおおやこ)・与人(ゆんちゅ)・目差(めざし)」等の役人が派遣されていました。
慶長十四年(1609年)、薩摩の島津氏によって琉球王府が実質的な支配下に置かれると、琉球王朝は薩摩への貢物を納めるために、八重山諸島への人頭税(注3)を強化して搾取し続けました。世界税制史上、最も非人道的とものとされるこの人頭税が廃止されたのが明治三十六年(1903年)で、およそ300年もの間、八重山の人は重税に苦しんだのでした。蔵元跡に人頭税廃止を記念した石碑が立っています。
博物館に隣接する駐車場からは、蔵元の石垣や礎石などが見つかっていて、現在は埋め戻されていますが、将来的には観光整備計画もあるそうです。
『現在は遺構は埋め戻されている』
『琉球王朝と薩摩藩の二重支配により搾取されていた象徴である人頭税撤廃の碑』
八重山蔵元の周辺地図
おわりに
2013年3月に開港した新石垣空港は、市街地と離れているので、今回UPした史跡は見落としがちになると思いますが、石垣島の市街地中心部には様々な時代の史跡が残っていますので、ゆっくりと散策してみてはどうでしょう。
この後は、石垣島離島ターミナルへ移動して竹富島へ。全ての船便はこの港より発着します。竹富島までは、石垣島からわずか20分の距離であり便数も多いです。
この記事は続きます。
『石垣島離島ターミナル』
石垣島離島ターミナルの周辺地図