大河ドラマ「軍師官兵衛」、数少ない黒田官兵衛のエピソードの1つである有岡城幽閉が放送され始めましたね(2014年5月18日放送分より)
官兵衛は、天正六年(1578年)9月に荒木村重を調略しようとして有岡城(兵庫県伊丹市)に出向いたところを、官兵衛を裏切って毛利方へ寝返っていた小寺政職の意を受けた村重によって幽閉されてしまい、有岡城が開城した天正七年(1579年)に救出されますが、劣悪な環境にて1年の長きにおける幽閉によって左足を悪くしてしまいます・・・
というのが、一般的に知られる官兵衛の有岡城幽閉エピソードなのですが、もともと官兵衛には良質な史料があまり残っておらず、この有岡城幽閉についても「黒田如水傳」という大正時代に書かれた本が初見ということで信頼性にやや欠けます。今後、新資料によって定説がひっくり返る可能性は大いにあります。
『公園整備されている有岡城』
官兵衛の幽閉場所は?
官兵衛を救出したのは、大河ドラマでも主要キャストとして登場している栗山善助(利安)、母里太兵衛(友信)、井上九郎右衛門(之房)とされており、黒田如水傳によると、
有岡城の西北の隅にありて、其の後ろには、水深き溜池あり、又其の三方は、竹藪を以て囲まれたれば、太陽の光りを見ること能はず、土地陰鬱にして、湿気常に膚を襲ひ、さながら今生よりの地獄なりき。
とあります。しかし、この3人(しかも後の黒田八虎の面々)が銀屋という商人の助けにより、水堀を越えて主君を救出したというのはという筋書きは少々ドラマティックすぎます。
官兵衛の幽閉に関する資料として最近注目されたのが、後年に荒木村重が官兵衛に出したとされる手紙です。2013年12月2日付けの神戸新聞の記事(リンク先記事公開終了)によると、有岡城落城後から4年後の天正十一年(1583年)、領地を横領された京都の光源院が、茶道として豊臣秀吉に仕えていた村重を頼った時のものであり、解決の約束をしたうえで、
(秀吉の)お供で姫路においでになると思っていたが、おいでにならず残念。機会があれば会うことを考えている
と、光源院の領地である鳥取を含む中国方面の取次であった官兵衛に解決を依頼している様子が窺えます。
本能寺の変からわずか数年で、秀吉の側近くにポジションを得ている村重の行動も謎ですが、仮に村重が有岡城で官兵衛に対して劣悪な扱いをしたのであれば、「取次(方面担当事務官)」という、当時の豊臣家中における重要なポストにいた官兵衛に対して、このように気軽に頼むということは考えにくいので、記事にあるように両者の関係は有岡城籠城戦の時にも比較的良好で、土牢での幽閉は無かったとの説が強くなります。
では官兵衛幽閉がまったくのデタラメであるかというと、そうではないと思わせるエピソードもあります。それは、官兵衛が幽閉中に藤の芽を見て自分を奮い立たせたというもので、司馬遼太郎氏の小説などで歴史ファンには広く知られたエピソードです。史料的な根拠は無いのですが、官兵衛は有岡城籠城戦以後に家紋を「丸に三橘」から「藤巴」に代えていますので、すべてを後世の作り話と断定してしまうこともまた出来ないと思います。
『藤巴の紋』
地図を見てみると、水堀越しに藤の木を見られたのではないかと想像できる場所があります。現在のイオンモール伊丹付近の字は「藤の木」で、その昔に川の対岸であった付近「玉津藤の木」から分かれた地名となっています。この字の由来が偶然ではないのであるならば、現在の兵庫県免許センターやアイホールあたりが幽閉地と推定できます。
この推定地は、有岡城の主郭にあたり、牢はあったとしても劣悪な土牢だったとは考えにくいです。伝わる竹藪は茶の道を愛した村重ならば意図して植えていたかも知れませんが。やはり、幽閉されたとはいえ、官兵衛の扱いはさほど悪くはなく、座敷に軟禁状態だったと考えてみることは出来ないでしょうか。
官兵衛の幽閉推定地
http://jibusakon.jp/history/sengoku/minagi
http://jibusakon.jp/history/sengoku/minagi
http://jibusakon.jp/history/sengoku/minagi
加藤重徳
官兵衛の幽閉にはもう一人重要な人物が登場します。加藤重徳という武将で官兵衛の牢番であったところ、丁重に官兵衛を扱っただけでなく、栗山善助たちの官兵衛救出に手を貸したとして、その次男の黒田一成は黒田家の重臣として幕末まで存続します。
私が気になったのは、本来は身分が相当低い者が務める牢番を、摂津の名族である伊丹氏の庶流であった加藤重徳がなぜ担当していたかということです。この点も、官兵衛が土牢ではなく、丁重に軟禁状態であったというなら納得がいきます。牢番ではなく、荒木家重臣として官兵衛の世話をしたというわけですね。
恩を感じた官兵衛は重徳の次男を召し抱えて、この次男が黒田一之として「黒田二十四騎」の中でも特に優れた「黒田八虎」として名を残すほどの活躍をします。三奈木の地(福岡県朝倉市)に知行地陣屋を構えた三奈木黒田家は、福岡藩の中でも別格の大老として筆頭重臣の地位を保ちます。後年、この三奈木黒田氏の子孫から幕末の福岡藩で勤王運動を主導して非業の死を遂げた加藤図書が出ています。
三奈木黒田家が福岡藩で栄えたのには、黒田一之の力量もありますが、当時の黒田家の家臣事情もあったのでしょう。播磨の新興土豪であった黒田家の家臣団は、ドラマにあるような強固な主従関係と言うよりは、土豪連合の盟主といった感はあります。
黒田家の猛将として後世まで知られている後藤又兵衛の後藤氏などは、鎌倉時代の頃から活躍する名門ですし、官兵衛個人との主従は強くとも、黒田家としての絆はさほど強くなかったと考えられます。黒田長政と後藤又兵衛の確執もこういった同輩意識が少なからず関係していたのではないでしょうか。
官兵衛は積極的に新規の家臣を取り立てることによって、土豪連合の盟主からの脱皮を図ったといえば考えすぎでしょうか。しかし、三奈木黒田家が一万六千石という大名並みの知行を有して江戸時代を通じて大いに繁栄するのに対して、他の黒田二十四騎の子孫はそのほとんどが粛清されて没落しています。
栗山善助の家は子の大膳が黒田騒動で追放、井上九郎右衛門の家は井上崩れで追放など、播磨土豪の系譜を持つ家臣は江戸時代にはあまり恵まれた環境にはなかったようです。
『三奈木陣屋は庭園などが史跡として整備されている』
『付近には安藤家など三奈木黒田氏家臣屋敷が良く残っている』
三奈木陣屋周辺の地図
三奈木黒田家の馬乗(上級家臣)・安部氏150石の武家屋敷。
福岡藩筆頭家老・三奈木黒田家の陣屋。庭園が整備されている。
おわりに
官兵衛の有岡城幽閉は、その生涯のうち前半最大のエピソードではあります。しかし、劣悪な環境から生還した後、天下にその名を轟かす名軍師になったというドラマティックな筋書きをそのまま信じてしまうのではなく、自分の中で「官兵衛って本当はどのような人?」と好き勝手に想像してみるのもまた歴史の楽しさではないでしょうか。
特に官兵衛は史料が少ないこともあり、妄想がしやすい武将ですしね(^_^;)