【石田三成】三成が関ヶ原合戦敗戦後に潜伏したオトチ岩窟を訪ねて敗走ルートを考えてみた

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今回は、石田三成のお話です。 

 関ヶ原合戦にて石田三成が敗れたのは誰もが知ることですが、敗れて処刑するまでどうしていたかについてはあまり知られていません。今回はその足跡を辿ってきました。

 慶長五年(1600年)九月十五日、関ヶ原の地で徳川家康に敗れた石田三成ですが、その敗走路については諸説があり、はっきりとしたルートは確定されていません。三成が捕縛された場所も伝わっているだけで7カ所もあります。(下記の表参照)

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石田三成捕縛の候補地一覧(曽我治太郎氏作成)

候補地現在の地名史料
草野谷長浜市草野(旧浅井町)・田中吉政系図
・寛政重修諸家譜
・内府公御陣地場覚書
・関原御一戦記
草野谷の岩窟長浜市草野(旧浅井町)・関ヶ原記
脇坂村の芦原長浜市丁野(旧湖北町)・武徳安民記
川合村の源右衛門宅長浜市木之本町川合・庵主物語
古橋村オトチ岩窟
(又は与次郎太夫宅)
長浜市木之本町古橋・美濃国雑事記
・関ヶ原軍記大成
・石叩余史
井口村の農家長浜市高月町井・関ヶ原軍記
江州北部越前国との境福井県との県境あたり・細川家記

三成はどこを目指したのか?

 一般的には、現在の笹尾山北側にある国道21号バイパスあたりから北の春日村(現:揖斐川町春日)を通り金糞岳南の鳥越峠を越えて草野谷へというルートと、藤川(現:米原市藤川)から姉川方面へ北上するというルートが考えられており、前者説を採る人が多いです。

 しかし前者のルートは険しい山越えであり、合戦翌日の十六日には谷口村の庄屋宅(現:長浜市谷口)に辿りついていることから考えても鳥越峠越えの可能性は低くなります。また関ヶ原での敗戦後に、居城である佐和山城が攻撃されることは容易に想像できますので、西への敗走は困難であることを考えると三成が敗走できるルートは北しかありません。

 北へのルートを考えた場合、三成の母に所縁のある古橋村(現:長浜市木之本町古橋)を目指すのが一番無難なルートですが、単に母の故郷というだけではない理由があったのではないでしょうか。

 

古橋村

 三成を戦場から北方へ案内したのは、美濃国で漢方医を生業とする桜井一族。当主の桜井藤兵衛が、三成の父である石田正継と親交があった関係から一族58名を率いて西軍へ参戦しています。戦後は家康方の詮議を逃れるために信濃へと移住しました。現在も長野県佐久市にご子孫が居住されており、当時の様子が「桜井家文書」として伝わっています。

 この桜井藤兵衛に案内された三成に付き添ったのは、磯野平三郎・渡邉勘平・塩野清助の3人(諸説あり)であり、近江に入ったあたりで別行動を取った三成は、谷口村の庄屋宅で1泊した後、尾根沿いで古橋村へ逃れたと考えられます。

 この谷口からの尾根道は、近江の戦国大名・浅井長政が頻繁に通っていたという伝承が地元には残っており、地理感のある三成にとっては敵の目から逃れられるルートだったに違いありません。無事に古橋村に到着した三成は長政も通ったという法華寺を目指しますが、古橋村の与次郎太夫(庄屋とも農民とも伝わるが詳細は不明)の勧めで、さらに奥にある「オトチ岩窟」に隠れます。

 民政のプロであった三成は、領内の制度やインフラを整備して民の為に善政を行っていました。三成に恩を感じている村人は三成の介護を必死で行いますが、他村から養子に来ていた男に密告されて二十一日に田中吉政によって捕縛され、京の六条河原にて四十一才の生涯を終えることになったのです。

 


『三成の敗走ルート(曽我治太郎氏作成)』

オトチ岩窟

 三成が隠れたという「オトチ岩窟」は大蛇岩窟が転じた名前の岩窟です。登山道までは林道があり、終点には1台分の駐車スペースもありますが、道は悪いうえに土砂崩れの危険性もありますので、大型車や運転に不慣れな方はやめておいた方が良いでしょう。現に私が訪れた時も道の途中が土砂崩れで通行が出来ませんでした。

 食事や温泉休憩が出来る「己高庵」から歩いても2キロほどですので無理は禁物です。また林道終点からは30分ほどの登山になりますので、しっかりとした服装と装備を準備し、安全の確保は十分にしてください。(周辺は熊の出没地域です)

北近江観音路 己高庵(ここうあん)
ようこそ己高庵へ!四季折々の地元の食材を楽しんでいただき、近江、湖北の観音様と自然に抱かれ、ごゆっくりお過ごしください。

 

otochi『オトチ岩窟への林道』

otochi-2『オトチ岩窟登山道入り口』

IMG_1259
『己高庵からの登城ログ(参考:年輩の方々とかなりのゆっくりペース・曇天コンディション普通)』
(出展:「国土地理院」

 

 オトチ岩窟は近年整備がされていて、今では看板やのぼり旗も立ってはいるのですが、岩窟そのものは崩落がすすんでおり危険です。中へ入るロープもありますが、安全面には十分に気をつけてください。

 岩窟の中は大人が10人ほど入れるぐらいのスペースがありますが、闇に閉ざされており、文字通りコウモリの巣となっています。戦に敗れた三成が、このような寂しい場所に身を潜めたかと思うと栄枯盛衰の儚さを感じずにはいられません。

 

otochi10『整備はされていますが・・・』

otochi-3『オトチ岩窟』

otochi-4『オトチ岩窟内部』

オトチ岩窟周辺地図

ここから比高200mほど。

関ヶ原敗戦後に三成が隠れていた岩窟。

登山口に駐車スペースはありますが、未舗装の林道で落石等もありますので、山道の運転に不慣れな方や車高の低い車の方は、車では行かないで己高庵から歩いて行ってください。

おわりに

 この三成最後の地となった古橋村には、今でも数々の伝承が残っているので紹介してみたいと思います。

 

  • 密告した婿養子の家は子孫まで疎まれた。
  • 三成死後、他村からの養子はもとより、他村からの入り人に厳しくなった。
  • 種まきは午前中に行わない。・・・三成が捕縛された午前を遠慮して
  • 古橋は決して朝霧が上がらない。・・・三成の悲しみのため
  • 味噌汁が沈殿する。・・・三成最後の食事に味噌汁があり、その悲しみから
  • 金谷橋の由来。・・・三成捜査の立て札を立てたことから 

 

 いずれも真偽の程はわかりません。しかし江戸時代に徹底的な史料抹殺が行われた三成に対して、地元に伝わる様々な伝承は善政を行った三成を忘れないでいようという思いからではないでしょうか。たかが迷信と、一笑に付さずに検証してみるのも面白いかも知れません。

 

筑摩江や、芦間に灯すかがり火と、ともに消えゆく、我が身なりけり
                                (三成辞世の句)

 

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 戦に敗れて処刑された三成ですが、その人生の最後を母に縁のある古橋村で迎えたことは幸せだったのでしょうか。機会があれば是非訪れてみてください。

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◎石田三成
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