以前、2泊3日で喜界島踏破と奄美大島の主要な城跡をめぐる計画を立てたのですが、喜界島を刊行した後に、まさかの飛行機欠航にて喜界島に閉じ込められます。翌日の第一便で奄美大島へと戻れたものの予定は大幅にカットで・・・
奄美大島
奄美大島は鹿児島県の南方に浮かぶ奄美群島の中核を成している島で、主要四島(北海道・本州・四国・九州)を除くと佐渡島(新潟県)に次ぐ大きさです。
兼久式土器などの独自文化を持つ奄美大島は、古代から「雨見島」として中央の朝廷に認識されていました。平安初期には太宰府から追討令が出ているように、日本の威令が届いていた喜界島とは一線を画し、独立性の強い島であったようです。
後に琉球王朝の支配下に組み込まれますが、倭寇の根拠地の一つであった時期もあり、城跡にも赤木名城のように竪堀や腰郭など本州の影響を受けたものや、タナグスクのように集落を環濠で囲んだ奄美古来もしくは琉球の影響を受けたもの、倭寇の痕跡を示す半田遺跡など実にバラエティに富んでいるのが奄美大島の特徴です。
日本や琉球、南方文化が黒潮に乗って混じり合う境界線であった奄美大島の歴史は、坪井清足氏が指摘されている「境目の考古学」として日本へ与えた影響を考えるうえで興味深い地域と言えるのではないでしょうか。
奄美大島を歩く
奄美歴史民族資料館
とりあえずは空港でレンタカーを借りたものの、時間が無いので空港近辺での散策に・・・・ まずは奄美歴史資料館に立ち寄ります。
奄美大島に関する様々な展示も良いのですが、何と言っても極東軍事裁判(東京裁判)の判決記事に目を引かれます。学芸員さんの話も興味深く、まずは情報や史料を得るために立ち寄るのがオススメです。
極東国際軍事裁判は、第二次世界大戦で日本が降伏した後の1946年(昭和21年)5月3日から1948年(昭和23年)11月12日にかけて行われた、連合国が「戦争犯罪人」として指定した日本の指導者などを裁いた一審制の裁判のことである。東京裁判(とうきょうさいばん)とも称される。(Wikipediaより)
『極東軍事裁判の判決記事』
奄美歴史民俗資料館の周辺地図
宇宿グスク
昭和八年(1933年)に三宅宗悦博士(京都大学)によって発見されました。奄美大島最初の国指定文化財になっています。
古代の貝塚などの他に環濠(集落を囲む堀)なども発掘されており、古代から奄美大島が活発に交易をしていた様子がわかります。公園整備もされているのですが臨時休館でした。泣きっ面に蜂とはこのことですか・・・・・
『宇宿グスク』
宇宿グスクの周辺地図
赤木名御仮屋
喜界島でも訪れましたが、江戸時代に薩摩藩が設けた外城制度の中で、行政を司る役所を御仮屋と呼びます。薩摩以外では代官所や出張陣屋と呼ばれているものと基本は同じです。
奄美大島では慶長十八年(1623年)の琉球攻めにおいて功績のあった法元仁衣文衛門が初代奉行に着いて以降、大熊・大島、そしてこの赤木名と御仮屋の移転を繰り返していました。赤木名御仮屋は、中世の山城である赤木名城の麓に設置され、珊瑚の石垣が現存しています。
『赤木名御仮屋の石垣』
赤木名御仮屋の周辺地図
みなとやの鶏飯
赤木名御仮屋を見たあたりで午前の散策時間も終わり、飛行機への搭乗時間が近づいてきたので昼食を慌てて取り空港へと向かいます。昼飯は当初の予定通り奄美大島名物の「鶏飯」です。これがウマイ!
鶏飯(けいはん、ケーファン)とは、鹿児島県奄美群島と沖縄県で作られる郷土料理。日本各地に郷土料理として存在する「とりめし」と同字異音であるため混同されやすい。「とりめし」が丼物や炊き込みご飯の形式に近いのに対し、当料理は茶漬けに近い食べ物である。(Wikipediaより)
『鶏飯発祥といわれている「みなとや」さんで食べます!』
『再訪時(2018年2月)には人気店の「ひさ倉」さんで』
『あっさりしていて食もすすみます(^_^)』
みなとやの周辺地図
ひさ倉の周辺地図
おわりに
奄美大島は古代から中世を通じて「境目の島」として様々な文化が混じり合いました。城跡にしても、九州の影響が強い城や琉球の技法を持つグスクまで実に変化に富んでいます。
西南地方には第二次大戦中の戦争史跡などもあり、歴史ファンにとっては非常に魅力的な島なのですが、悪天候による日程縮小というアクシデントにより、今回は不完全燃焼でした。
離島の城跡・史跡めぐりには天候のリスクはつきものですが、今回ほど不運に見舞われたことはなかっただけに、リベンジはいつかしたいですね。
『奄美空港』
追記:2018年2月に再訪しました。