NHK大河ドラマ「真田丸」、いよいよ物語の佳境となる大坂の陣が迫ってきましたね! ロケ地としての真田丸が本格的に築かれた様子も公開されて、真田ファンならずとも盛り上がってきています。
真田丸とは
豊臣秀吉が築いた難攻不落の大坂城。上町台地上に築かれ、河川や湿地帯に守られた要害であるこの城にとって唯一の弱点が南方。この方面だけが台地上にあるために、豊富な河川の恩恵を受けることが出来ず、空堀を築いているに過ぎません。
元奈良大学学長の千田嘉博先生は、特に真田丸が築かれた場所の西側が最弱部分で、真田丸を築くことによって敵の攻撃を弱点部分から逸らすことができたと指摘されています。
慶長十九年(1614年)に、豊臣・徳川両家の手切れによって開戦となった大坂冬の陣にて、九度山より大坂方へ味方した真田信繁(幸村)が、この真田丸にて徳川軍を散々に打ち負かした戦はあまりにも有名です。
この戦いで真田信繁が活躍し、その名を上げたことは紛れもない事実ではあるのですが、すべてを信繁が立案したわけではありません。南方惣構え外側には、真田丸以外にも出城は築かれていましたし、信繁と共に「大坂方五人衆」と称された後藤又兵衛や毛利吉政(勝永は俗称で、実際には名乗っていない)も砦の防御を指揮しています。
『大坂冬の陣配陣図(現地案内板より)による真田丸の位置』
『大坂冬の陣図屏風(現地案内板より)に描かれた真田丸』
後藤又兵衛の側近であった長沢九郎兵衛が書き残した「長沢聞書」によると、真田丸の守将は真田信繁と長宗我部盛親であったとされており、あくまで担当守将の一人であったようです。
真田信繁が大坂へ入城したのは十月十三日(本光国師日記)、真田丸が完成したのが十一月十五日(落穂集)であり、その期間はわずかに1ヶ月。豊臣方は真田丸よりさらに南方の木津川口などにも砦を築いていることから、当初から籠城作戦の準備は進められていたのでしょう。信繁が献策したとされる瀬田へ進出して畿内に防衛ラインを張るという作戦も、すでに徳川家康は駿府を出陣しており、現実にあったとは考えられません。
砦の守将となった信繁はこの真田丸出城を改修し、三日月状の堀を築いて巨大な馬出の役割を持たせ、さらにその外側には柵を築いて敵に備えました。この柵からの攻撃によって、徳川方は陣を築くのを邪魔されて、強引に柵を破る攻撃に出たことにより、逆に真田丸からの集中攻撃を浴びて大損害を受けました。
『空堀商店街に展示されている柵のレプリカ』
大坂冬の陣が講和となった後、大坂城の惣構えは埋め立てられ、同時に真田丸も破却されました。江戸期の絵図には「真田出丸跡」と描かれています。
『大坂三郷町絵図(現地案内板より)による大坂の陣後の真田丸』
真田丸推定地
http://jibusakon.jp/shiromeguri/kinki-shiro/osaka-shiro/sanadamaru
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明星学園高校あたりが主郭と考えられ、平野口にて大坂城惣構え(細青線)に隣接しており、周辺に空堀(太青線)を配し、東には柵(太赤線)を巡らせた陣を構築していたと考えられています。また、周辺には真田山町という地名がありますが、真田丸出城の城域とは関係ありません。
真田丸を歩く
三光神社〜旧陸軍墓地周辺
三光神社には、「真田の抜け穴」と伝わる場所があります。このあたりから隣接する旧陸軍墓地あたりが従来の真田丸出城であったと伝わってきましたが、実際には真田丸の外側にあたり、開戦当初には柵が設けられていました。
同地にある旧陸軍墓地の名称は「真田山墓地」ですが、ここの地名は「宰相山」であり、この宰相とは従三位参議であった前田利常からの由来(宰相は参議の中国名)です。
城攻めに慎重な徳川家康の命により、真田丸に対しての付城を気付いた前田軍。十二月二日には塹壕や土塁を築きますが、真田丸の外側に位置した大坂方に銃撃などで邪魔をされています。この外側の陣が、赤太線で示した東側の柵だったのではないでしょうか。
2日後の十二月四日、付城工事の遅れに業を煮やした前田利常は、工事の邪魔をしてくる大坂方陣地を猛攻して占拠します。これが、信繁が意図して兵を退却させた作戦であったのかはわかりませんが、この攻撃により真田丸に隣接する小山を前田軍が占拠しました。これが宰相山という地名の由来でしょう。
しかしながら、付城を放棄して真田丸に接近しすぎた前田軍は、真田丸へ攻撃を仕掛けるも逆に手痛い敗北を喫することになったのです。
『三光神社の抜け穴と真田信繁像』
『旧陸軍最初の埋葬者である下田織之助の墓』
三光神社・旧陸軍墓地の周辺地図
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大阪明星学園周辺
真田丸の主郭は、現在の大阪明星学園一帯と考えられていて、周囲の道路にその堀跡の高低差を観ることが出来ます。また、学園に隣接する心眼時と道路には、真田丸の石碑と解説版も建っています。
『学校の壁には信繁の絵が!』
かつての堀跡は学校沿いの道路として残っています』
『心眼時には坂本龍馬を斬った犯人候補である渡辺篤と桂隼之助の墓があります』
『道路脇にある真田丸の解説が書かれた石碑』
この真田丸からは、大坂城惣構えに設けられた平野口一カ所だけが城内へと通じており、真田丸が落ちても城内への影響が最小限に抑えられるよう独立性が高いものとなっています。
『平野口周辺』
清水谷公園〜空堀商店街周辺
真田丸の背後には、大坂城惣構えの空堀がありますが、上町台地上にて水を入れられない分、幅広く深い堀となっています。現在もその高低差は確認することが出来ますし、惣構えと交差して城内を通っていた熊野街道の石垣も一部残っています。
『清水谷公園付近では惣構えの高低差がよくわかる』
『空堀商店街沿いの町屋カフェにある石垣の一部』
空堀商店街の周辺地図
加賀築山〜越前築山
以前、某局のテレビ番組で千田嘉博先生が真田丸に対して築かれた築山の存在を指摘されています。貞享四年(1687年)に描かれた『新撰増補大坂大絵図』にその存在が書かれているそうですが、徳川方は真田丸に対して付城を築いていたようです。
難攻不落の大坂城を前にして、城攻めが苦手とされる徳川家康の慎重策なのか、上田合戦で二度も敗北を味わされた「真田」というブランドに対しての警戒感なのか、いずれにせよ陣を構築してじっくりと攻める予定ではあったようです。
現在は都市開発により、築山の面影を観ることは出来ませんが、戦前までは周辺に比べて地形の盛り上がりは残っていたそうです。しかし、結局は築山よりさらに高い位置にある真田丸を守る真田信繁によって、陣の構築は上手くいかなかったようです。工事の遅れを焦った前田利常は攻撃を急いで手痛い敗北をすることになったのです。
『前田利常が築いた加賀陣城は慶傳寺の南方付近が推定地』
『松平忠直が築いた越前陣城は大阪貯金事務センター付近が推定地』
加賀築山〜越前築山の周辺地図
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おわりに
真田信繁がその名を後世に残した真田丸。大都市の市街地にあるために、その全貌を解明することは難しかったのですが、最新技術によって徐々にその姿を表してきました。巨大な大坂城に張り出した三日月状の砦は、規模は違いますがまさしく武田信玄流の丸馬出。
甲斐の虎と呼ばれた武田信玄の側近として使えた父・真田昌幸の意志を継いで、武田流軍法を正しく継いだ信繁は、この真田丸にて敵の注意を惹きつけ壊滅させるという目的を見事に果たしたわけです。
残念ながら、時代の流れは大坂方へは味方しませんでしたが、「真田日本一の兵」と、現在にまでその活躍を評価され続けている信繁と真田丸の痕跡は今もたしかに残っていました。