グスクめぐりその4です。
安慶名グスクと伊波グスクを堪能したあとは、いよいよグスクの中でも圧倒的な迫力の城壁が魅力な勝連城へと向かうために勝連半島へと車を走らせます。
勝連城
「琉球王国のグスク及び関連遺産群」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に認定された5つのグスクの一つ。最後の城主が、琉球王朝の戦国史では護佐丸(?〜1458年?)と並んで著名な阿麻和利(?〜1458年?)であり、城内からは中国の陶磁器などが多数見つかるなど大陸との貿易によって大いに繁栄していたことがわかっています。阿麻和利によって繁栄した勝連の地は、中央集権の強化を目指す琉球王朝にとっては驚異であり、阿麻和利は謀反の疑いをかけられて滅亡、勝連城もこの時に廃城となっています。
城郭は勝連半島の付け根に位置する独立丘陵に築城されており(比高100m)、南城(ヘーグシク)・中間の内・北城(ニシグシク)から成り立っています。石垣による城壁などはあるのが北城であり、1の曲輪~3の曲輪で構成されています。一般的に観光客が訪れるのはこの北城であり、整備されていない(2009年当時)南城や仲間の内(4の曲輪~5の曲輪)の存在はあまり知られていませんが、すべての城域を合わせるとかなりの規模です。
仲間の内ではグスクでは珍しい堀切が発見されたのですが、2009年の時点では未整備な仲間の内は藪に覆われており、ハブの危険性があるためにオススメはいたしません。世界遺産に認定された現在では下手に藪漕ぎをしていると通報されるリスクもあります。
琉球王朝の歌謡集「おもろさうし」には、グスクという言葉が多く出てきますが、この勝連城や今帰仁城など大規模なグスクについては、「勝連グスク」「今帰仁グスク」という言い方をしていません。勝連城にも拝所はあるのですが、軍事色が強い大規模な城郭にはグスクという呼び方をしていない事もグスクの定義が難しい理由の一つとなっています。
『勝連城模型(公園内資料館)』
『勝連城遠景』
『連郭式の城域からは圧倒的な迫力を感じる』
『主郭虎口』
『主郭御殿の礎石』
『堀切を探すときはハブの危険性に注意(現在は立ち入ることが出来ません)』
『おもろさうし』(おもろそうし)とは、琉球王国第4代尚清王代の嘉靖十年(1531年)から尚豊王代の天啓3年(1623年)にかけて首里王府によって編纂された歌謡集。「おもろ」の語源は「うむい(=思い)」であり、そのルーツは祭祀における祝詞だったと考えられており、「そうし」を漢字表記すれば「草紙」となり、大和の「草紙」に倣って命名されたものと考えられる。全二十二巻。(Wikipedia)
勝連城の周辺地図
世界遺産。続日本100名城。世界遺産に認定された5つのグスクのうちの一つで、琉球王朝の戦国史で著名な阿麻和利の居城としても知られる。北の郭にそびえ立つ石垣は圧倒的な迫力がある。
『勝連城公園内のトイレはなぜか踊っている(^_^;)』
阿麻和利(?~1458年)
琉球王朝の戦国史で、護佐丸と並んで著名な武将といえば勝連城最後の城主であった阿麻和利(?~1458年)でしょう。しかし、その名は英雄である護佐丸を讒言して滅ぼした後、自らも謀反の疑いで粛正された悪役、江戸時代の吉良上野介的な扱いを受けています。
当時の琉球王朝は三山統一後の中央主権強化を強めていて、地方領主である按司達の崇拝を受けていた歴戦の勇者である護佐丸は、王家である尚氏にとっては目障りな存在であり、滅ぼした北山国や南山国の残党が護佐丸の元に集結することを恐れていました。
第一尚氏六代国王であった尚泰久(1410〜1460年)は、若き阿麻和利をもって護佐丸を滅ぼし、尚泰久の娘である百度踏揚(ももとふみあがり)の婿となり、護佐丸討伐の英雄として勢力を伸張させた阿麻和利もまた、王府転覆の野望を妻である百度踏揚に密告され、鬼大城(越来賢雄・夏居数 ?〜1469年)によって討伐を受けて敗死しました。このときに勝連城は落城しています。
後には鬼大城も粛清され、尚泰久の岳父であった護佐丸の名は復権を遂げます。そして、阿麻和利は琉球史上最大の逆賊という汚名を着せられるという不可思議な現象となったのです。琉球王府は、護佐丸の名誉を復活されることで、阿麻和利征伐の正統性を主張したのです。
「勝連の阿麻和利 玉御柄杓 有りよな 京 鎌倉 此れど 言ちへ 鳴響ま 又肝高の阿麻和利 又島知りの御袖の按司 又国知りの御袖按司 又首里 おわる てだこす 玉御柄杓 有りよわれ」(おもろさうし下巻 外間守善校注 岩波文庫)
当時の勝連は、阿麻和利によって日本の鎌倉に例えられるほど繁栄しており、領民からは名領主として慕われていました。しかし、大和派(親日本派)である阿麻和利は日本との結びつきを強く主張するため、中国との交易を推進する琉球王朝にとっては目障りであったのでしょう。また、せっかく王府を脅かす存在であった護佐丸を排除したにもかかわらず、同等以上の名声や実力を持ち始めた阿麻和利は、義父でもあった尚泰久にしては心安まる存在ではありません。粛清は必然の流れであったのでしょう。
地方にあって独立性の高い領主でもある按司の勢力を削ぐために利用され、護佐丸と同じように粛正された阿麻和利もまた、統一王朝樹立後の政情の中で翻弄された武将であるのではないでしょうか。その墓は、彼が愛した勝連の地ではなく、遠く離れた読谷村にひっそりとあります。
『珊瑚礁の巨岩をくり抜いた墓』
阿麻和利の墓の周辺地図
珊瑚礁の巨岩。
おわりに
日本100名城に認定されたグスクは首里城・中城城・座喜味城の3城。しかし、勝連半島の先端丘陵にそびえ立つ城壁が魅力の勝連城こそが100名城だと思う人は多いと思います。私も個人的には一番好きなグスクです。
半島の先端にあるために、台風の被害は頻繁にあり崩れた石垣を修復した箇所を見ることが出来ます。また、湾に面した独立丘陵である勝連城の吹きさらしの風は強烈です。風が強い日は十分に注意して登城してください。
この記事は続きます。