広島〜愛媛間の瀬戸内を結ぶ「しまなみ街道」を形成する大島と伯方島の間にある能島。昭和六年(1931年)、当時の宮窪村に住む住民有志により植えられた桜の樹木はこの島の名物となっており、桜満開の時期には季節船が1日だけ運航されて、貴重な場所での花見を楽しもうと花見客で賑わっています。
その能島は、中世から近世にかけて、瀬戸内に名を馳せた海賊(水軍)衆・村上一族の惣領家である、能島村上氏の根拠地であった能島城(国指定史跡)が築かれていました。今回、通常では年に一度の花見の時期にしか訪れることが出来ないこの城に、通常ルートと特別ルートで渡ってきました。
海賊(水軍)とは
海賊の出現は古く、奈良時代にも遡ります。天平二年(730年)には聖武天皇が「京および諸国の盗賊と海賊を追補する」との詔を出しており、平安時代の史書「三代実録」には伊予国宮崎村での海賊行為について書かれているのが、史料上確認出来る最初の海賊勢力圏です。後に村上水軍が活躍をする、しまなみ街道周辺の島々こそが海賊のはじまりの地であるとも言えます。
平安初期、荘園の拡大にともなって沿岸や島にまで開発の波が押し寄せたために、漁業や塩田で生活していた海の民が、その利権を奪われ生活の困窮から発生した海賊でしたが、やがて狭い海峡を安全に航海するための水先案内や海上警護、交易によって兵やその家族を養い、艦船や武器を生産して海上の一大勢力となっていったのです。
貞和五年(1349年)の「東寺百合文書」には、東寺の荘園である弓削島へ塩の輸送をするのに「野島(能島)警固衆が上陸したので酒肴料を払った」と書かれています。この頃にはすでに「略奪を働く海賊」から、「権力の下で海の軍事力としての水軍」へとその性格を変えていたようです。
そのような海賊・水軍衆を統率していた勢力として村上氏がいました。鎌倉時代末期までの系図(清和源氏系・信濃村上氏系)にはあまり信憑性がなく、実際には揖取百姓(開発領主でありながら付近の漁業者集団を統率する網元)が出自であったと思われる一族ですが、南北朝時代の頃には因島・能島・来島の三家に分かれて活動を行っていました。
戦国時代には、伊予の河野氏や中国の毛利氏の元で水軍衆を率いて活躍し、村上武吉や来島通康の活躍によって芸予間の島々で勢力を拡大、「海の大名」とまで称されていました。その後の天正十六年(1588年)に豊臣政権がに発令した「海賊禁止令」によって、海上警固や交易関税などの特権を奪われて海賊・水軍衆としての活動は終わりましたが、豊後の大名や長州藩士としてその名跡は現代へと繋がっています。
【村上氏略系図】
大島にある村上水軍史跡
亀老山展望台
せっかく村上水軍の城を訪城するということで、まずは大島周辺を見渡せる亀老山展望台へと車を走らせます。この地は、伊予の河野氏に協力をしてその重臣となり、大島付近に勢力を伸ばした村上清長が、隈ケ嶽城を築いた場所と伝わっています。
清長は清和源氏・源頼信流としては、「尊卑分脈」(主要諸氏の系図の中では信頼性が高い史料)で確認が出来る最後の人物であり、以降の村上氏の系図には信憑性がありません。
『しまなみ街道を見下ろせる絶景だが、城跡の痕跡はまったくない
『現在では恋人の聖地(注:2017年には撤去されていました)』
高龍寺と村上義弘の墓
南北朝時代に「海賊方の棟梁にして河野十八家大将の随一」と称された村上義弘は、菊池武光と並んで西日本における南朝方の忠臣として村上水軍の中で最も有名な人物です。伊予の河野通直を助けて、足利尊氏が派遣した細川頼之を撃破、伊予から瀬戸内にかける南朝勢力圏を確立した名将とされています。
しかし、この義弘を信頼できる史料上で追うことは出来ず、歴史研究者の多くはその存在を否定しています。義弘の墓と伝わる宝篋印塔が亀老山の山腹にあるのですが、天蓋の様式は義弘の時代とは違うことや、塔身だけ他から持ってきて備え付けた痕跡があるなど、その信憑性にも疑問があります。
義弘には、先に隈ケ嶽城を築いて大島周辺に勢力を張った村上清長の系譜に、同じ頼信流である信濃源氏・村上氏から養子に入ったという伝えもあります。この信濃源氏からは元弘三年(1333年)に鎌倉幕府の吉野城攻防戦にて、護良親王の身代わりに蔵王堂で壮絶な戦死を遂げた村上義光があり、義弘はその曾孫だというのですが年齢の計算は合いません。
義弘には実子がいたのですが、跡継ぎには同じく信濃源氏から村上師清が養子に入っています。この師清には、別に南朝の忠臣・北畠親房の孫という伝承もあるのですが、どうもこの南北朝時代の村上氏系図には信憑瀬に欠けるところが多く、また養子に入った人物がいずれも南朝の忠臣と称される人物であることから、戦前まであった皇国史観的な根拠からの系図粉飾の可能性は考えられます。
いずれにせよ、この時期に村上氏が集団として大きな活動を起こし、海賊・水軍衆として飛躍したのは間違いない事実であるので、義弘に比定されるリーダーはいたのでしょう。
『村上義弘の菩提寺である高龍寺』
『亀老山展望台への道脇から墓へはアクセスが出来る』
『伝・村上義弘墓』
亀老山展望台・高龍寺・村上義弘墓の周辺地図
亀老山展望台。
村上義弘の菩提寺。
高龍寺奥の院。
能島城へ上陸
能島城へ渡るためには、年に一度行われる島内での花見を見学する日(4月に2日間のみ)しか船は出ませんので、それ以外の季節に島へ渡ろうとすると、船をチャーターするしかありません(もしくは発掘調査のとき)。その機会を狙い、平成二十年(2008年)四月にその季節船に乗り込み初上陸を果たしました。
『起点となるのは村上海賊ミュージアム(続日本100名城スタンプもここに設置されています)』
『博物館内にてイメージを膨らします』
『カレイ山展望公園より能島城遠景』
『周辺の島々も海賊衆の根拠地』
『季節船にて渡航』
『すぐに能島が見えてくる』
『いざ上陸!』
能島城は、島の中央に階段状の曲輪が三つとそれに伴う腰曲輪、監視台があるだけの小規模な城郭です。技巧的な虎口や土塁、堀切などの防御施設は一切ありません。代わりに、海賊衆が使用していた小型の船「小早」を係留する船着場の名残である「ピット痕(柱の穴)」を見ることが出来ます。能島城にとっては、周囲を海で囲まれ「船折」と呼ばれる潮流が島のまわりにあることこそが、城の堀であり土塁であったわけですね。
『能島城縄張図(島内案内図より)』
『縄張りは至って平凡で小規模』
『激しい潮流こそが防御の要』
チャーター船にて2度目の上陸
発掘調査が続く城跡
能島城へ上陸してから3年後の2011年7月、ご縁があって発掘調査後の能島へ連れて行って貰える機会がありました。大島へは車で行き、宮窪港にてお願いしていた漁師さん、その名も「村上」さんと合流し、チャーターしていた船で3年ぶりの能島へ上陸します。
『漁船にていざ能島へ!』
4人乗りの漁船でピストンして島へ上陸。前回来たときに、城跡は一通り見て回ったのですが、潮が満ちているとまた違って見えるのが不思議です。
『小早の船着場があった場所も満潮で海の底』
前回の花見シーズンとは違って、チャーター船で来ると島内は貸し切り状態で見学できました。
『普段は無人島です』
『海峡を航行する船を監視していた曲輪』
能島城は近年、国指定史跡として城跡の発掘調査が続けられています。島内から鍛冶場なども見つかっており、海の関所としてさまざまな機能を持った城であったことがわかってきています。また、城域の規模がさほど大きくない理由としては、対岸の「さんの遺跡」から痕跡が発掘された宮窪城とセットで用いられていた可能性があることなどが指摘されており、能島村上氏の実態解明はさらに進んでいるようです。
『発掘調査により鍛冶場なども見つかっている』
2時間ほど島内を見学していると、潮が引いてきて景色が一変します。
『船着場へ降りる階段(現在は使用不可との話も聞きます)』
『海岸では瓦も散見できます(持って帰ってはダメですよ!)』
『ピット痕(柱を立てた穴)』
久しぶりに訪れた能島城でしたが、前回とは違った視点で楽しめました。潮が満ちている時の潮流も迫力がありますが、潮が引いた時に現れる姿は軍事だけでは無く、交易の権益を守る関所としての能島城の痕跡を見ることが出来ます。
鯛崎島砦
能島のすぐ隣には鯛崎島という小島があります。この島は能島城の出郭的な島で、能島とは潮流という天然の堀で区切られており、郭址には弁財天の祠と城址碑が立ちます。能島城とセットで見学しておきたいところですが、この島へ上陸するには、年に1度の弁天さんのお祭りの日に宮窪漁協さんが出してくれる船(無料)で渡るか、チャーター船上陸するしか方法はありません。
『能島とは目と鼻の先だが潮流により簡単には渡れない』
『島は海の神様である弁財天さんを祀っている』
『船着場から階段を上がると単郭の城跡へ着く』
『城跡には弁天さんの祠と城址碑がある』
能島城の防御ライン
能島城がある海域の潮流は非常に激しく、数多くの船が座礁・難破した海の難所であり、天然の防御施設として機能していました。しかし一方で、日や時間によって潮流には差があり、また潮止まりも日に数回あることから、その防御機能には過大評価出来ないとの研究が2000年代になって行われています。毛利氏や河野氏との合戦記録からは、来島城・務司城・姫内城を基点とする「来島海峡防衛ライン」、大友宗麟と能島村上氏との書状に出てくる「小見山水ノ手」との能島城対岸防衛ラインなど、能島城単体ではなく、周辺の海域と連携した防御ラインが構築されていたと考えられています。
宮窪城・幸賀屋敷
2017年、2020年には「さん遺跡」と呼ばれている村上氏の居館跡を訪れました。能島城には井戸が無く、対岸には「水場」という地名が残ることから、生活の場としての居館があったのではないかと以前から思われていて、「さん遺跡」からは鍛冶屋が製鉄するときに出てくるスラッシュ(鉱浮)や室町時代末期くらいの五輪塔と宝陸印塔が四、五基、さらには供養塔の他に青磁や白磁、小札(鎧につける鉄の小片)が出土しています。当時、青磁は大変貴重であり、鍛冶場跡や小札の出土は武装集団の存在を裏付けています。供養塔や経塚の遺構は、海で亡くなる可能性が大きかった海賊衆は、衣服や頭髪を壷に入れて供養していた。能島城を一望出来る「さん遺跡」は、村上氏当主やその家臣団の居館跡であった可能性が高いのです。
『居館跡と推定されている宮窪城遠景』
『主郭』
『土塁』
『主郭を中心に6つの小曲輪が連なる』
宮窪城からは能島城が一望することが出来、隣接する小字は「カジヤ田」。様々な遺物が出土しています。宮窪城から少し降った場所にある幸賀屋敷は家臣の館があったと推定されており、現在も井戸が残っています。
『現在も井戸が残っている』
おわりに
平成二十九年四月、日本城郭協会の「続日本100名城」に選出された能島城。地元の宮窪漁協としまなみリーディングという観光会社がタイアップして開催している上陸ツアー(予約制)も好評であるらしく、今治市も将来的に城跡観光ができる方向で検討しているそうです。島の象徴であった桜の木は、城跡保護も兼ねてすべて伐採する計画であるそうで、この村上水軍の城が日常的に見学出来る日はそう遠くはなさそうです。その日が待ち遠しいですね!
『上陸ツアーの様子』
アクセス方法
能島への船は、村上水軍博物館近くの港から発着します。博物館へは福山市や尾道市、今治市などから高速バスもしくは、今治市や因島からのフェリーにて大島入りし、路線バスで行くことが出来ますが、マイカーでのしまなみ街道経由が便利だと思います。
能島城・鯛崎島砦の周辺地図
能島城の出郭的な島。城址碑があり弁財天がまつられているが、船をチャーターしていくほかに上陸する方法はない。
続日本100名城。発見!ニッポン城めぐり登録。村上水軍三家の1つ・能島氏の居城。激しい潮流に守られた水城。年に一度、花見のときのみ上陸できる(現在は上陸ツアーがある)。
能島城への船着場周辺地図
能島城と対になっていた能島村上氏の居館跡か?
能島村上氏の居館跡か?
道の駅が併設。
https://www.city.imabari.ehime.jp/museum/suigun/