韓国へ倭城を見に行く旅その3は、2日目朝からの行程になります。
初日に釜山倭城を見学した一行は、宿泊した釜山のモーテルを出発して2日目からの合流組を迎えに向かいます。
この日から合流するために、福岡から高速船ビートルで釜山港に着いたうきき女史。戦国時代に活躍した森一族研究の第一人者で「森一族専門サイト RANMARU」の管理人さん。なぜか地元の報道陣に囲まれていました(^_^; (※観光客の取材だったようです)
『釜山フェリーターミナル 福岡から3時間』
草梁倭館
うきき女史を加えた9名は、龍頭山公園に向かいます。釜山を見下ろせる釜山タワーが人気で、韓国では定番の李舜臣像もあります。とはいえ観光地を楽しみに来たというよりは、この地が江戸時代に対馬藩の出先機関であった草梁倭館跡としか見ていないあたりはこのメンバーでは仕方がないところ(^_^;
歴史に詳しい人ならば、鎖国をしていた江戸幕府の朝鮮外交を担っていたのが対馬藩というのは知られていますが、米の生産高がまったく見込めない対馬藩の宗氏にとって、この倭館を中心とした朝鮮貿易はまさに生命線。朝鮮との通交を重視しない幕府高官との綱渡りな駆け引きが対馬藩の歴史と言えるでしょう。
『龍頭山公園は草梁倭館跡だが遺構は消滅している』
『李舜臣像』
『古地図に残る倭館』
『亀甲船の模型』
蔚山倭城
龍頭山公園をあとにして金海空港へ。ここでK氏のお仲間3名は帰国されて、入れ替わりにN女史が合流します。6名となった一行は韓国東部の工業都市・蔚山市へ向かいます。蔚山市へは金海空港から直通バスが出ていますが、タクシーをチャーターしても安いです。蔚山バスターミナルからは、「蔚山倭城(ウルサン・ウェソン)」や「西生浦倭城(ソセンポ・ウェソン)」など、名だたる倭城への支線バスに乗ることが出来ます。蔚山倭城へはターミナルから北へ2キロほどなので、タクシーで蔚山倭城へと移動します。
『釜山から蔚山市へは高速バスで移動』
豊臣秀吉による朝鮮出兵の中でも、もっとも著名な戦いといえるのが、この蔚山倭城での籠城戦ではないでしょうか。慶長2年(1597年)12月、築城工事を終えた浅野幸長・宍戸元続(毛利輝元家臣)が、在番担当である加藤清正へ城を引き渡す準備をしている隙を狙って、明の将軍・麻貴率いる明・朝鮮連合軍5万7千の大軍が襲いかかります。
この時、日本方の兵力はわずかに2千たらず。蔚山倭城を見下ろす古鶴城山(コハクソン)を占領され、食料も2日分しかなく井戸を封じられた籠城軍が、壁土を食べ尿を飲んだと伝わっています。黒田長政や鍋島直茂の救援軍により、連合軍を退けたものの4千人の死者が出ました。当時の様子は「朝鮮軍陣図屏風」に描かれていますが、清正にとっては厳しい戦いだったでしょう。
『朝鮮軍陣図屏風』
『蔚山倭城に残る石垣』
『広大な虎口も破壊が保存状態は悪い』
しかし、その著名な蔚山倭城の保存状態は良くはなく、公園整備された中に当時の石垣を散見する寂しいもの。広大な虎口も石垣が崩れ落ちており、清正の籠城戦を感じることは難しくなっています。
『蔚山でも宿はモーテル』
蔚山倭城をあとにした一行は、タクシーでリゾート海水浴場である鎮下(チナ)へと移動して格安モーテルにチェックイン。このあたりまで来ると英語でも通じないのでコミュニケーションも難しくなりました(^_^;
この記事は続きます。
蔚山倭城・草梁倭館の周辺地図
蔚山広域市中区鶴城洞
城将:加藤清正