韓国へ倭城を見に行く旅その8は、5日目後半の記事になります。
順天倭城から順天バスターミナルに戻った一行は、そこから南海バスターミナルへバス移動をします(5,500ウォン 2009年当時レート)。南海バスターミナルからはタクシーに乗り、小さな漁村にある「南海倭城(ナメ・ウェソン)」を訪れます。倭城見学の経験がある人でもここへ訪れる人はあまりいないとも思えるほど、日本からは遠く離れた場所へ来たという感じです(^_^;
『南海島地図』
『南海倭城は小さな漁村にある』
南海倭城
南海倭城は、順天倭城・泗川倭城から海を隔てた南海島に脇坂安治が築城した「慶長八新城」で、朝鮮出兵末期の撤退戦においては巨斉島に集結予定でありながら、船の座礁によってこの南海倭城に取り残された島津軍の樺山久高・喜入忠政が籠もっています。
豊臣秀吉死後の全軍撤退時には、島津義弘や小西行長が相当な苦戦をしながらも、露梁海戦において朝鮮水軍の李舜臣が戦死により、無事に撤収することができたにもかかわらず、この南海倭城では明軍の中でも好戦的な苗族によって行われた、残虐な掃討戦により被害は甚大でした。
現在も明軍の戦勝を記した「張良相東征磨崖碑」が残っていますが、碑文によると日本軍撤兵から1年もの間、明軍は南海倭城に駐屯していたことがわかります。
『水軍大名・脇坂安治によって築かれた海城』
『張良相東征磨崖碑』
その南海倭城ですが、現在は畑の中にわずかに石垣が散見できる程度であり、天守台などは藪で覆われていて整備はまったくされていません。
『南海倭城石垣』
晋州城
南海倭城からタクシーで南海バスターミナルに戻り、晋州バスターミナルへ再びバス移動をします(5,100ウォン 2009年当時レート)。晋州の町で腹ごしらえをした後は、初の朝鮮式城郭です。その「晋州城(チンジュソン)」では、文禄元年(1592年)と文禄二年(1593年)の2度にわたって包囲戦が行われ、1度目は失敗に終わりますが2度目の攻城で制圧、同時期に半島南部を確保するために築かれた倭城群が完成したことから破却されました。
現在は城壁都市の門などが復元整備されており、また夜にはライトアップもされる観光スポット・デートスポットとなっています。中にある国立晋州博物館にて、朝鮮出兵の映画を見ることができるのですが、「織田木瓜」が登場したりと時代考証は無茶苦茶でした(^_^;
『晋州の町並み』
『昼飯は韓国冷麺』
『晋州城城門(復元)』
『晋州城』
『城内にある大砲レプリカ』
『夜はライトアップがされている』
ライトアップされた晋州城を散策したり、夜の街で楽しんだ後は晋州の街にあるモーテルに宿泊。
この記事は続きます。
南海倭城の周辺地図
城将:脇坂安治
晋州城の周辺地図