古琉球と呼ばれた時代から、沖縄地方へ数多く築かれた軍事拠点をグスクと呼びます。世界遺産に認定されている大規模なものから、祭祀の場として築かれたものまでさまざまなグスクが今も各地に残っています。
【奄美大島で城跡や史跡を訪ねてみた】(1)宇宿グスク・赤木名御仮屋
奄美大島は古代より、「境目の島」として日本や琉球などの文化が入り交じっていました。城跡についてもそのような境目の特徴を見ることができます。また、第二次大戦中は南方への拠点として軍事施設が建設されていて、現在もその遺構が島内に散見されます。
【喜界島で城跡や史跡を訪ねてみた】(3)御殿の鼻・御仮屋・村田新八寓居・城久遺跡・ウフヤグチ鍾乳洞・勝連屋敷・海軍航空基地・戦闘指揮所
喜界島での史跡めぐり初日は、島の外周をめぐって平家の伝承地などを訪ねました。2日目は島の内部にある史跡を訪ねてまわります。 御殿の鼻 初日とはうってかわり晴天となった2日目は、喜界島中心街に近い御殿の鼻から見学します。当時は独立した群島権力があった喜界島は、奄美群島にまで勢力を伸ばしてきていた琉球王朝に最後まで抵抗をした島でした。 琉球国の第一尚氏王朝最後の王となった尚徳王は、なかなか野心的な人物であったようで、明の冊封を受けた後、明や朝鮮だけでなく遠くマラッカやジャワなどまで交易船を出して海外交易を推進します。財政基盤を強化したことを背景に領土拡大にも乗り出して、奄美群島を攻略、奄美島・与論島・沖永良部島・徳之島が早々と降伏する中で喜界島だけは激しく抵抗を続けました。 尚徳王は自ら兵二千、軍船五十隻で島を攻めますが、喜界島の首長以下が籠城した砦がこの御殿の鼻と言われています。当時、島の首長は平家残党の後裔だったともいわれており、伝承が本当だったとしてもここで平家は完全に滅びることになったわけです。また、この場所はノロが集まり祭祀を行う祭場でもありました。軍事拠点と祭祀の場が同じ...
【喜界島で城跡や史跡を訪ねてみた】(2)川嶺グスク・七城・平家森・直線道路・阿伝集落・レーダー基地跡
喜界島北部の志戸桶海岸は壇ノ浦で滅亡した平家の落武者が上陸した伝承があります。また、島内には七城や平家森など平家の公達たちが築いたとされる砦跡も存在します。
【喜界島で城跡や史跡を訪ねてみた】(1)掩体壕・俊寛の墓・珊瑚のトンネル・大城久・雁股の泉・ムチャカナ公園・平家上陸の地
離島の史跡巡り「喜界島」。古代、日本と海外との境界線と考えられていたのがこの喜界島でした。「鬼介」とも恐れらていたこの島へ奄美大島経由で上陸、まずは俊寛の墓や平家上陸の地などを巡りました。
グスクめぐり(12)【首里城・玉陵】
「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されている首里城は、勝連城や今帰仁城が現存する城壁などの遺構が対象となっているのに対して、復元された建造物や城壁は世界遺産でありません。玉陵や園比屋武御嶽石門と共に「首里城跡」としての登録です。
グスクめぐり(11)【勢理グスク・具志川城】
勢理グスクは遺構は無いですが「富盛の石彫大獅子」が有名なグスク。具志川城は絶壁に囲まれたグスクで、その城壁を含めて世界遺産に匹敵するグスクと言えます。
グスクめぐり(10)【グスクロード(垣花城・玉城グスク・糸数城)】
グスクロードと呼ばれる4キロあまりの地域には魅力的なグスクや史跡が散在しています。その中でも垣花城、玉城グスク、糸数城は自然豊かな地形の中に古風な石積みが残っているとても魅力的なグスクです。
グスクめぐり(9)【知念城・斎場御嶽】
琉球の聖地である久高島を遙拝できる場所にある斎場御嶽は琉球神道の最高位・聞得大君を任命する場所。近くにある知念城も祭祀場としての性格が濃いグスクです。
グスクめぐり(8)【三重グスク・屋良座森グスク・御物グスク・硫黄グスク・南山城】
琉球王朝のグスクは軍事施設や祭祀場といった性格のものばかりではなく、諸外国との交易に関係するグスクもありました。那覇市周辺には、三重グスクや御物グスクなど交易に関係したグスクが残っていますが一部は米軍基地内にあり、見学が出来ない場所もあります。南山城は三山時代の南山王国居城ですが、前面にある立派な石垣は後世のものなので注意が必要です。
グスクめぐり(7)【浦添城・浦添ようどれ・伊祖グスク】
琉球王朝発祥の地である浦添市には、三山の一つ中山王国の居城であった浦添城、陵墓である浦添ようどれ、英祖王の生誕地である伊祖グスクなどがあります。