わずか10年ほどの短命であったために、昭和初期までは「幻の都」と呼ばれることもあった長岡京。その長岡京跡右京第1084次調査により、勝竜寺城の前身である神足城の空堀・土塁遺構が確認されました。
平成26年7月に現地説明会が行われたのですが、当日はタイミングが悪く所用で行けなかったのですが、城友さんよりの「1週間ほどで埋め戻されますよ」という一言を聞いて、翌日には家族が寝ている隙に朝駆けをして見てきました(^_^;)
今回の調査で空堀・土塁が発掘された神足城とは
神足城を改修して勝竜寺城に取り込む
山城の国人であった神足氏(こうたり)の居館であった神足城の土塁を一部取り込んだうえで、横矢などの拡張を施して勝竜寺城北東の防御を固めています。
『神足氏時代の神足城(現地説明会資料より)』
単郭の曲輪を土塁と堀で囲んでいます。国衆の居館によくある形ですね。この旧城を細川幽斎(藤孝)が織豊城郭タイプへと拡張した勝竜寺城に取り込みます。
『勝竜寺城に取り込まれた神足城(現地説明会資料より)』
取り込んだとはいえ利用したのは北辺の部分だけで、新たに拡張した土塁や空堀、横矢機構を設けたことがわかります。
『発掘された空堀と土塁』
神足氏
神足城を拠点にした神足氏は神足信朝が足利直義に従って以来、室町幕府の御家人であると同時に西岡三十六人衆として惣国一揆の指導的立場の国衆でもありました。応仁の乱後には細川氏の被官として活動する一方で守護権力の介入を拒む態度を見せており、摂津守護代・薬師寺元一の反乱には味方したりしています。
この神足氏が在した西岡という地は、室町幕府の有力守護であった細川氏や畠山氏という中央の政争に巻き込まれた地域であり、そこを拠点としていた有力国衆の居城であった神足城は、今回の調査結果で「神足氏の城を細川幽斎が拡張」という単純な結論を出せない面もあり、今後の課題となっています。この神足氏の子孫は、後に主筋の細川氏に従って肥後熊本藩士となっています。
勝竜寺城
古くは長岡京が置かれた京への西の玄関口となる西岡の地は、西国街道と久我畷が交わる交通の要衝で、南北朝の戦乱や室町幕府内の政争では重要な位置を占める土地です。
織田信長よりこの地を与えられた細川幽斎は城郭の大規模な改修を行い、二重の堀を持つ勝竜寺城を築いています。現在は主郭と沼田丸以外は宅地開発で消滅しており、史跡公園として整備されています。
江戸初期には廃城となった同城には、模擬櫓などが建設されて「細川ガラシャ」を前面に出して観光名所となっていますが、城郭ファンとしては正直微妙なところ・・・(^_^;) しかし、明智光秀が山崎合戦での敗北後に退去した北門など新たに発掘整備された箇所もありますので、じっくりと散策するのも良いでしょう。
『勝竜寺城(現地案内板より)』
『発掘調査により北門が発見されて整備された』
『幅広い堀に多門櫓など当時の先端技術が導入されていた』
勝竜寺城の周辺地図
国衆・神足氏の居城。神足神社周辺が城跡だが、2014年7月に空堀・土塁が発掘されている。
http://jibusakon.jp/shiromeguri/kinki-shiro/kyoto-shiro/shouryuji
神足城を拡張して細川氏が整備した。
http://jibusakon.jp/shiromeguri/kinki-shiro/kyoto-shiro/shouryuji
勝竜寺城は城跡公園として整備されているので、車で行く場合は公園駐車場を利用することが出来ます。
おわりに
現地の案内板でも「北東に空堀や土塁が残る」程度にしか紹介されていなかった場所での今回の調査結果は、勝竜寺以前の城郭を考える上では重要な成果だと思います。公園整備による調査でしたが、現状保存は難しいとのことなので、今後この遺構が見られなくなるのが非常に残念です。