【倭城の旅】(9) 泗川倭城・望晋倭城

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韓国へ倭城を見に行く旅その9は、6日目の記事になります。

 この日の朝は晋州城内にある晋州国立博物館の見学から開始です。「織田木瓜」の映像など無茶苦茶な時代考証もありましたが、豊臣秀吉による朝鮮出兵の展示資料としてはそれなりに楽しめます。晋州城見学は有料で、一般(25~64歳)は400ウォン、19~24歳は割引で200ウォンと不思議な年齢区分です(レートは2009年当時)。18時以降は入場料が無料です。

 

 

織豊期城郭研究会 (編集)

 

014chiju>『亀甲船の模型』

014chiju-2『晋州博物館の展示品』

 

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泗川倭城

 博物館を見学後はタクシーで移動します。30分ほどで、朝鮮出兵を通じて「蔚山籠城戦」と並んで著名な戦いである「泗川の戦い」の舞台、「泗川倭城(サチョン・ウェソン)」へ到着します。このあたりまで来ると李舜臣戦死の地が近いためか、説明板には李舜臣を称える一方で日本を貶めるものや、日本人へのスラングもより多く聞くようになります。タクシーの運転手もわからないと思ってなのか「チョッパリ」と平気で言うぐらいですから、そのあたりが気になる人は訪城はやめておいた方が良いでしょう。

 泗川の戦いは、江戸初期に島津久通によって書かれた「征韓録」によって詳細な流れがわかります。征韓録によると、泗川での攻防は泗川倭城を中心に泗川邑城(古城)・晋州城・望晋倭城・永春倭城・昆陽倭城をめぐっての戦でした。長曽我部元親・毛利吉成・島津忠豊・伊東佑兵・秋月種長・高橋元種などがわずか2ヶ月で泗川倭城を築城し、本丸には島津忠垣が入り、総指揮官である島津義弘は二ノ丸で指揮をしています。

 忠垣は義弘の嫡男ですが島津家の跡継ぎであり、その室は島津義久の娘。正式な当主では無い義弘が本丸を譲る形になっていますが、このあたりには島津家内部のお家事情である義久・義弘兄弟の確執が見られ、この島津家の内部政争は関ヶ原合戦にも大きく影響を与えることになります。

 慶長三年(1597年)、明・朝鮮連合の中路軍司令官・董一元と東路軍・麻貴率いる3万7千の大軍に対して、島津義弘は前線である望晋倭城・永春倭城をわざと放棄して泗川倭城に引き寄せ、火器による一斉攻撃で明・朝鮮連合軍が浮き足立ったところへ突撃して撃破。征韓録によると明・朝鮮連合軍の戦死者は3万8千とのことですが、征韓録は島津家による編集なので多少は誇張な数字でしょう。しかし、五大老連名による奉書は発給されているので、事実として大勝利であったことは間違いありません。これにより、明・朝鮮の間では「石曼子(シーマンズ)」という名前が長く恐れられることとなりました。

 このように島津義弘の有名を高めた戦いとして歴史ファンにも有名な泗川倭城ですが、城跡自体は復元が微妙で、倭城唯一の復元建造物である大手門は姫路城の模倣。しかも、瓦の紋は島津の「丸に十の字」ではなくてなぜか揚羽蝶(^_^; 付近には明・朝鮮側の首塚も整備されています。

 

014shisen-wajo『倭城唯一の復元建造物は姫路城を参考に・・・・』

014shisen-wajo-2『石垣も復元されていますが・・・』

014shisen-wajo-3『首塚』

 

望晋倭城

 いったん晋州へと戻り、泗川の戦いの舞台となった倭城の一つ「望晋倭城(マンジン・ウェソン)」を見学します。城跡は公園化されており、城域は当時のままでも遺構らしきものは見いだせませんでした。晋州城泗川倭城見学の時間調整にどうぞぐらいのオススメ度です。この「望晋」は征韓録では「望津」と書かれていまが、晋州城を攻めるための陣城として築かれたので「望晋(晋州城を望む)」なのか、河川・港を押さえる為に「望津」かは、現地の地形がどちらの条件にもあてはまりますので判断がつきませんでした。

 

014boushin-wajo『望晋倭城から晋州城を見下ろす』

014boushin-wajo-2『望晋倭城の主郭には鉄塔』

 

 望晋倭城を見学後した後は、長距離バスに乗って釜山へと戻ります。この日の夜は倭城遠征最後の晩餐と言うことでサムゲタンで乾杯、絶品でした!

 

014samugetan『サムゲタン』

 

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この記事は続きます。

 

泗川倭城の周辺地図

泗川市龍現面船津里402
城将:島津忠垣・島津義弘

望晋倭城の周辺地図

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