【石田三成】秋田で三成の墓を訪ねてみた

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今回は、石田三成のお話です。

 慶長五年(1600年)十月一日、関ヶ原合戦にて敗れた石田三成は京の六条河原にて刑死しました。しかし、京から遠く離れた秋田の地には、三成の生存伝説だけでなく、その墓と伝えられている場所があります。

 

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帰命寺に残る三成の墓

三成生存伝説

 六条河原から脱出した三成が、佐竹義宣を頼ってこの地で帰命寺を開いたというのが秋田に残る三成生存伝説なのですが、三成の研究者やファンの中でどれほどの人がそのことを信じているのでしょうか。今も秋田の地にて存在している帰命寺での生存伝説を最初に紹介したのが三成研究の先駆者である渡辺世祐先生。明治四十年(1907年)にその著書である「稿本石田三成」において、

 

佐竹義宣、関ヶ原戦後、秋田へ転封せし時、三成逃れ来りしかば。これを扶助し帰命寺という一寺を建立して、その住職たらしめぬ。

 

 と書かれています。三成の最後を知っている人には信じがたい内容ではあるのですが、書かれた方が「三成は単なる奸臣ではない」と世に知らしめた渡辺先生の著書だけに、まったくの根拠の無い話ではないのかもしれません。

 オンライン三成会の佐藤誠氏は、その著書・三成伝説の中で古書である「羽陰温故誌」にも同様の記述があり、三成は敗戦後に法華寺三珠院を目指して古橋村に潜伏したのではなく、出羽に逃れて長音和尚となったとあると書かれています。

 たしかに小田原征伐前後から三成は佐竹氏に肩入れをしており、佐竹氏が常陸において五十万余石の大名としてその基盤を確立出来たのも三成の助力があってのことです。しかし、佐竹義宣が秋田へ転封となったのは関ヶ原より二年後の慶長七年(1602年)であり、明治に書かれたという同書は、佐藤氏が親三成論調であるとも指摘されていることから割り引いて読む必要はあり、帰命寺の「長音和尚=石田三成」という確証にはならないのではないでしょうか。

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『没年が書かれている』

長音和尚

 帰命寺に伝わる寺伝では、北陸からやってきた長音和尚が寺を開基したとあります。佐藤誠氏は「帰命寺にある観音像に記されている没年から、三成は120歳まで生きたというのは信じがたい」と結論されていますし、三成研究家の白川亨先生も著書にて同様のことを書かれています。

 もし長音和尚が三成ではなく、縁者であったならばこの墓碑の記述には矛盾がありません。年代的には三成の下の世代にあたる人物になりますが、「北陸から来た」という寺伝から、関ヶ原合戦前後に北陸を守備していたという石田左兵衛という可能性はあるかもしれません。

 この左兵衛という人物については、三成の弟である石田某の息子であったという以外、記録にはほとんど登場しません。某が石田正継の養子だったからなのか、それとも母の身分が低かったのか、それともそのような人物は始めからいなかったのか・・・ 残念ながらそれ以上はわかるすべがありません。ただ、石田左兵衛長音和尚であったのであれば、佐竹義宣と三成の親交をあらわすエピソードの1つにはなりますね。

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『長音和尚の供養塔』

帰命寺の周辺地図

石田三成が関ヶ原敗戦後に逃れて開基したという寺伝があり、三成の墓と伝わる墓碑がある。
http://jibusakon.jp/mitsunari/kimyouji

おわりに

 帰命寺に伝わる三成生存伝説は、史料的な裏付けとしては弱いかも知れません。しかし、奥州の津軽氏だけでなく、秋田の佐竹氏にもこのような三成の痕跡が見られるのは、小田原征伐から奥州仕置にかけての大名政策の中で、新しい時代に困惑した大名たちへ三成が親身になって対応した結果、その恩義を感じていた者が少なからずいるという証明にもなります。伝説はあくまで伝説ですが、それでも三成が生きていたという話はミツナリストにとっては信じてはみたいですよね。

 

kubota-tyouzu『佐竹氏の居城であった久保田城内には、三成が佐竹のために秀吉からもらい受けたという手水鉢がある』

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◎石田三成
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