韓国へ倭城を見に行く旅その7は、釜山から西へ大きく移動しての5日目です。
韓国へ倭城を求めての旅も早くも5日目になります。前日までは、釜山周辺に残る加藤清正を総司令官とした東部戦線の拠点倭城を見学しましたが、この日は小西行長を総司令官とした西部戦線の拠点倭城を見学するために長距離バスに乗り込みます。
釜山から西へ長距離移動するには、地下鉄1号線で終点駅である「老圃洞(ノッポドン)」経由で、釜山総合バスターミナルへ移動します。このバスターミナルから韓国全土へ長距離バスが運行されています。「順天倭城(スンチョン・ウェソン)」へは優等バス(料金16,600ウォン 2009年レート)に乗り、バスに揺られること2時間半で順天バスターミナルへ到着します。そこからはタクシーで20分ほどの距離です。バスの本数が少ないため、帰りの時間を告げて迎えに来て貰うことにしました。(これが後で大失敗・・・・)
『老圃洞バスターミナルから西へ向かいます』
『順天バスターミナル』
順天倭城
順天倭城は日本軍の最左翼に位置しており、豊臣秀吉の朝鮮出兵後期にあたる慶長3年(1597年)に築かれた「慶長八新城」の一つです。朝鮮出兵前期の文禄期戦線が西生浦倭城~熊川倭城の二十里であったのに対して、慶長期の戦線は蔚山倭城~順天倭城の六十六里と三倍にも拡大しています。
当然のごとく兵站が戦の鍵を握ることになり、「御仕置之城々」と呼ばれる26城の倭城は、港湾を取り込んだ補給重視の築城になっています。順天倭城も光陽湾に突き出た海城であり、半島の付け根に大堀切を設けて海水を引き込んでいるので、古絵図ではまるで海に浮かぶ要塞のようにも見られます。
『順天倭城古絵図』
順天倭城は、蔚山籠城戦後の慶長3年(1598年)に明の水軍提督・陳璘率いる明・朝鮮連合水軍2万が押し寄せます。この順天の戦いについては、現在所在地不明で真偽が確認出来ないという前提ですが、1979年にニューヨークのコロンビア大学のギャリー・レッドヤード教授が紹介した「征倭紀功図巻」に詳しく描かれています。
この明・朝鮮連合軍の猛攻に、在番大名であった小西行長は奮戦して城を守りきります。結局は日本軍の戦線縮小によって城は放棄されるのですが、その防御力の高さは歴史が証明しています。また、同城は現在韓国に残る倭城の中でも、もっとも熱心に保存整備が進んでいる城でもあります。他の倭城と同じく説明板にはあまり気分の良くないことが書かれていますが、立場が違えば史観も違ってくるので(たとえ恣意的なものであっても)、そのあたりは大人の対応で良いかと思います。
『倭城の中でも整備に一番熱心である順天倭城』
主郭虎口など古絵図に描かれている遺構は丁寧に復元されています。一部、石垣の天板が赤いコンクリートで補強されたりしていますが、韓国の世情を考えると上出来では無いでしょうか。
『虎口・・・主郭虎口古絵図』
『現在の虎口赤いセメントで固められた復元には苦笑しますが・・・)
石垣については過去に適当な復元がされていた部分もあったのですが、近年は日韓の研究者が協力して正確な復元に積み直しが行われています。基本的に遺構が放置されてある他の倭城とは大きな差があります。
『天守台・・・天守台古絵図』
『現在の天守台』
『土橋・・・土橋古絵図』
『土橋』
天守台や土橋なども整備されています。埋め立てによって往時の海に浮かぶ城郭の雰囲気はあまりないのですが、それを差し引いても非常に見応えのある城であります。ただ、ここも交通の便が悪いので見学には余裕をもったほうが良さそうです。
私たちは、タクシーに迎えに来て貰う予定でしたが、時間を過ぎても現れない運転手に電話をするとまさかの腹痛・・・・(ホントかよ?) 故意か悪意かはわかりませんが代わりの運転手も手配されないあたりは、日本ではないのだと割り切るしかなかったです。結局は本数の少ないバスを待って順天バスターミナルまで戻りました。
この記事は続きます。
順天倭城の周辺地図
城将:小西行長