グスクめぐりその2です。
中城城を見学した後は、風が強いために勝連城をいったん通過して伊計島に向かいます。勝連城は地形的に吹きさらしの風がすさまじく、風の強い日には絶対に行かない方が良いです。
伊計島は沖縄らしいロケーションが見られる美しい場所です。家に飾ってあるシーザーは有名ですが、道の突き当たりに魔除けとして必ずあるのが「石敢當」、また一面に続くサトウキビ畑の合間に点在する沖縄独特の亀甲墓など独特の風景を目にすることが出来る地でもあります。
沖縄には中城城や勝連城などの大規模なグスク(これらの大規模なグスクは地元の記録ではグスクとは呼ばれていません)だけでなく、村単位で地方を治める按司(時代によって意味は違いますが、統一王朝以前は地方領主、本州でいう地頭のようなもの)の居城としての小規模なグスクも存在します。今回はそのような伊計島方面の小規模グスクを紹介します。
『伊計島の路地』
『道路の突き当たりには石敢當があります』
『伊計島灯台』
伊計グスク
伊計グスク(イチーグスク)は、按司(地方領主)であったアタヘクチドン(生没年不詳)が、隣接する泊グスクの按司である川端イッパーと争ったという伝承があります。伊計島へ渡る伊計大橋の側にありますが、グスク時代は独立した小島であり、宮城島と伊計島間の航行を抑えていました。14〜15世紀の中国陶磁器が見つかっており、大陸との貿易拠点の一つであったと推測されます。
グスクへはは北側の砂浜から登ります。潮が満ちているときは登城口が塞がれて侵入は難しくなりますので注意が必要です。砂州から石段を登ると山頂付近に広大な曲輪があり、三方を断崖で囲まれており、横矢のかかった虎口には石積みも確認出来ます。曲輪内には4カ所の拝所の他、伊計城主の石碑もあります。
『伊計グスク遠景』
『伊計グスクは潮が満ちると登城出来ない』
『うっそうと樹木が繁っているが広大な平坦地がある』
『4カ所の拝所』
『虎口にのみ石積みを確認できる』
伊計グスク周辺地図
アタヘチクドンという按司が泊グスクの川端イッパーと争ったという伝承がある。広大な平坦地が山頂にあり、虎口付近には石積みを確認することが出来る。中国製の陶磁器などが見つかったことから大陸との貿易拠点だったグスク。
泊グスク
宮城島にある泊グスクは、太平洋に突出した石灰岩で出来た岩山であり、四方を断崖によって守られた要害です。規模は小さいですが、石灰岩による虎口にはかつては立派な城門があったと推定され、随所に崩れ落ちたかつての石積みが散見できます。
このグスクは中北山時代の北山王である今帰仁世(?〜1304年?)が、怕尼芝(〜1395年?)によって滅ぼされた後に伊計島へ流れてきた一族の子孫という伝承を持つ川端氏の居城であり、川端イッパー(生没年不詳)のときに伊計グスクのアタヘクチドンと争ったと伝わっており、その時の戦いにより泊グスクは落城して、川端イッパーは城下のオクンノで自害、川端氏一族は滅亡しました。
『泊グスク遠景』
『湾に面した海城』
『夏場は訪城をオススメしません』
『城壁』
泊グスクの周辺地図
三山時代の北山王が滅亡した後に落ち延びたという川端氏のグスク。川端イッパーのときに伊計グスクのアタチヘクドンと争った伝承が残る。
比嘉グスク
浜比嘉島にある比嘉グスクはアガリグスクとも呼ばれており、グスクに関する詳しい事は何も伝わっていません。一ノ郭にある御嶽には千枚貝が祭られていて、現在は比嘉公園として整備されています。
所々に石積みが見られますが、公園整備の際に野面積みの城跡が破壊されてしまっており、発掘調査をせずに遺構が破壊されたのは非常に残念です。観光優先で文化的な価値を置き去りにした整備によって、多くの貴重な歴史遺産が失われてしまっています。
『比嘉グスクは公園として整備されている』
『比嘉グスク主郭』
『破壊された城壁遺構』
比嘉グスクの周辺地図
アガリグスクとも。公園になっているが、丘の随所に石積み遺構を見ることができる。
おわりに
太平洋に突き出た伊計島や宮城島、浜比嘉島のグスクは、中国との貿易の拠点でもあり、陶磁器などが数多く出土しています。城としての機能を終えた後も御嶽が置かれ、神聖な場所として民衆に崇められてきました。
この伊計島だけではなく、グスクには軍事施設とは別に祭祀の場としての側面があります。グスクによっては祭祀の場としてのみの場所もあります。「拝所」という祭祀のための空間がありますが、これは過去の遺構ではなく現役の祭祀を司る場所でもあることは、見学をする際には注意をする必要があるでしょう。
たとえば、比嘉グスクではグスク内の拝所とは別に、現在の集落内における祭祀を司っている拝所もあります。そういったグスク内にある集落の拝所へ興味本位で近づくのは絶対にやめてください。
この記事は続きます。