【続日本100名城】黒田官兵衛が築いた中津城と幕末砲台場

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 2010年に、豊前中津藩最後の藩主である奥平氏のご子孫が売却を一般公募したことで知られる中津城。当時は、「城が売りに出された!」と城好きの間では話題になったものです。

追記平成29年4月6日(城の日)に日本城郭協会認定の「続日本100名城」に選出されました。スタンプ設置場所は中津城模擬天守内(入館料400円・開館時間AM9:00~PM5:00・年中無休
)です。

2014年度大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公である黒田官兵衛が築城したこの城は、天守こそ鉄筋コンクリートの模擬天守ですが、当時の石垣が随所に残っているほか、市内には外郭を守るための土塁、通称「おかこい山」が現存するなど見応えのある城跡だと思います。

 

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中津城

 豊臣秀吉より豊前に所領を与えられた黒田官兵衛は中津江氏丸山城を攻め落とした跡に中津城を築城します。現在も大分・福岡との境に流れる山国川を天嶮の守りとし、河口沿いに築かれた同城は、本丸、二の丸、三の丸で構成されている総石垣造りでした。

 現在、模擬天守が建っている天守の存在にはその実在について意見がわかれています。官兵衛は犬丸城などの古材や唐原神籠石などの転用石を用いて築城を進めましたが、関ヶ原合戦後に福岡に移封、官兵衛に代わって豊前に入部した細川忠興が城と城下町を完成させます。細川氏が肥後へ移封後は小笠原氏奥平氏と続いて明治維新を迎えました。

 

nakatsu-catsle-3『中津城模擬天守』

nakatsu2-catsle『西門の石垣 過去には「慶長十二年九月」と刻まれた石が残っていた』

nakatsu2-catsle-2『水門の石垣』

nakatsu2-catsle-3『大手門の石垣』

nakatu3『南部小学校には中津藩家老・生田家の武家門が残っている』

黒田時代と細川時代の石垣

 「黒田如水縄張」という絵図と現在の中津城は縄張りが違いますが、これは官兵衛が築城した中津城に対して、その後を受けて城を完成させた細川忠興が本格的な城下町建設による増改修をしたためであり、現在も黒田氏時代の石垣を忠興が改修した跡を観ることが出来ます。

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nakatsu-catsle『黒田時代と細川時代石垣の境目』

古代の城から石垣を転用

 中津城から西南へ7キロほどの位置には、古代の城である唐原山城があります。官兵衛は中津城を築城の際にその古代の石垣を転用して使っています。これは、キリシタンであった官兵衛が古代の祭祀を否定するためと指摘する声もありますが、実際には石材を短期間で調達するための措置であったのでしょう。

黒田官兵衛が石を持ち去った古代の城【唐原神籠石】

霊域・城域で論争のある神籠石。福岡県上毛町にある唐原神籠石は明確な城郭遺構により古代の山城と考えられています。その古代の山城にあった石垣の多くは、戦国期に黒田官兵衛が中津城を築城する際に持ち去られてしまいました。…

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nakatsu-catsle-2『唐原神籠石からの転用石』

中津城周辺地図



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 中津城の駐車場へ車を停めて、歩いて散策するのが良いでしょう。

おかこい山と称された外郭ライン

 中津藩の城下町は黒田氏時代に基礎が作られていて、大手口前に設けられた商人町(姫路町など)にその名残を見ることが出来ます。城下町は細川氏時代には完成をしており、東南には下級武士の住居を設け(留守居町・仲間町など)、外堀沿いには寺社仏閣を置いて外郭の防備としています。

 そして外堀や中堀沿いには「おかこい山」と称された土塁を築いて防御性を高めています。現在、市内の五カ所にこの「おかこい山」が残っており、うち二カ所が指定史跡として整備されています。鷹匠町の外堀土塁は部分的な復元ですが、自性寺に残る土塁は規模も大きく当時の外郭防御の重要性を知ることが出来ます。

nakatu4-3『古絵図による外郭ライン(現地案内板より)』

nakatu4『自性寺に残るおかこい山』

nakatu4-2『鷹匠町に残るおかこい山』

御典医薬医門

 外郭土塁は中堀と外堀の二重に構えられていて、武家屋敷や商人町が城域に取り込まれていました。市内には当時の武家屋敷の様子がわかる中津藩御典医の中村家や大江家の薬医門が現存しています。

nakatu5『中津藩御典医・中村家薬医門』

nakatu5-2『中津藩御典医・大江家薬医門』

合元寺

 「赤壁」と称される合元寺は中津城の負の歴史を物語る遺構であるといえます。天正十六年(1588)四月、豊臣秀吉の九州仕置きに反発した豊前国最大の国衆である宇都宮鎮房(城井氏、下野の名族である宇都宮氏の支流)を、鎮房の娘である鶴姫と官兵衛の嫡男・長政との縁談を口実に中津城へ呼び寄せて謀殺、13才の鶴姫も磔にして処刑します。

 このとき、合元寺で待機していた家老の渡辺右京進以下の家臣達は寺に籠もって抵抗するも壮絶な討ち死にを遂げます。寺内には当時の刀痕などが残るほか、当時の血痕が何度落としても消えないので壁全体を赤く塗ったという伝承があります。

nakatu6『合元寺の赤壁』

福沢諭吉・増田宗太郎生家

 幕末から明治の思想家である福沢諭吉と、従兄弟であり西南戦争にて中津隊を率いて西郷軍に合流し戦死した増田宗太郎の生家跡も整備されています(増田家は2013年6月現在立ち入り禁止でした)。

吾、此処に来り、始めて親しく西郷先生に接することを得たり。一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日先生に接すれば三日の愛生ず。親愛日に加はり、去るべくもあらず。今は、善も悪も死生を共にせんのみ(増田宗太郎が西南戦争で語ったと伝わる言葉)

nakatu7-2『福沢諭吉生家』

nakatu7『増田宗太郎生家』

中津城外郭周辺地図



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中津城外郭周辺地図その2



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 各所それぞれに駐車スペースはありますが、市街地なので注意が必要です。

中津藩の幕末砲台場

 江戸時代末期の嘉永六年(1853年)にアメリカ合衆国海軍のペリー提督が来航して以来、日本各地の沿岸部に異国船に対する沿岸警備の砲台場が築かれましたが、中津藩でも文久三年(1863年)に中津城の北に流れる中津川(山国川支流)河口に向けて築かれていた三百間突堤の先端に台場を設けました。

 中津藩では大砲を自前で鋳造しており、対岸の小祝井浦台場と併せて6基の大砲を備えていました。両台場とも遺構は残ってはいませんが、推定地の地形は中津城北の沿岸部を守る重要な位置にあったことが現在でも伺うことができます。

nakatu-daiba-3『小祝井浦台場(遺構は消滅している)』

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nakatu-daiba-2『三百間突堤台場(遺構は消滅している)』

中津藩台場推定地



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 三百間突堤台場は闇無浜神社内に、小祝井浦台場は堤防沿いに駐車スペースがあります。

おわりに

 史実に基づかない模擬天守があると聞くと熱心な城郭ファンは敬遠しがちですが、古代の列石や石垣の変遷、大規模な外郭ラインを守るおかこい山など、市内に残る中津城の関連遺構は非常に見応えがあります。城下町の雰囲気も良く残っているので、是非時間をかけて散策してみることをオススメします。

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