韓国へ倭城を見に行く旅その5は、3日目後半の記事になります。
西生浦倭城を堪能した一行は、タクシーで国道31号線を15キロほど南下をして機張郡に入り、「林浪浦倭城(イムナン・ウェソン)」へ向かいます。西生浦からはバスで移動をしても良いのですが(降りるバス停は「月光」)、タクシーの初乗りが200円程度(2009年時レート)と安い韓国では1日中貸し切っても8,000~10,000円程度なので、何人かで行くときは時間短縮を考えるとこちらの方がお得でしょう。ちなみに韓国では「模範タクシー」と「一般タクシー」がありますが、一般タクシーでも問題はないと思います。(英語はあまり通じないので、会話は基本韓国語になります) 田舎の方では、理解出来ないと思って「チョッパリ」などと陰口・悪口を言われることもありますので、そのあたりは覚悟の上で訪城しましょう。
林浪浦倭城
林浪浦倭城は別名「セクハラ城」。くれぐれも女性が同行しているときには連呼しないようにお願いします(^_^; この城は、日本からの補給を重視して港を取り込んだ築城となっている他の倭城とは違い、港から離れた街道沿いに築城されています。西生浦方面へと向かう交通の要衝だけに、街道を抑え、補給路確保のための軍功防備目的で築城されたのでしょう。築城在番担当は、毛利吉成・島津豊久・伊東佑兵・高橋元種など九州の諸大名があたっています。
『軍港や街道を守る立地』
豊臣秀吉の朝鮮出兵は、日本の城郭史にとって各地で発達してきた築城術を融合しながら、織豊系城郭への全国統一規格化が図られた時期でもありました。高石垣や発達した虎口などが特徴ですが、同じ織豊系城郭を取り入れた倭城の中でも、得手不手があるのか九州の諸大名が築城した倭城などは、加藤清正が築いた倭城お比べると未熟な技術の部分が見えて面白いです。
林浪浦倭城もそのような九州の諸大名による倭城ではあるのですが、残念なことに数年前に火災により城跡は禿げ山になってしまっています。木が無くなって見学はしやすいのですが、石垣などには火災の焦げ跡などが生々しく残り、さらには消火活動の際に破壊された虎口は今も放置されています。機張文化院には復元された模型がありますが、整備もあまりされておらず、今後の保存が心配されます。
『火災の跡は痛々しい・・・』
『破壊された虎口」
機張倭城
林浪浦倭城からさらに10キロほど南下し、竹生里(チユクソンニ)の集落に入ります。バスだと機張市街から1時間に一本程度の田舎町であり、国道からも外れていることからアクセスはあまり良くないのですが、この「機張倭城(キジャン・ウェソン)」は港から伸びる登り石垣など、ツートップ(西生浦倭城・熊川倭城)に次ぐ見応えのある城であり、苦労して行く価値があると思います。
在番・築城担当は黒田長政。南西隅に一辺10メートルの天守台を築くなど、石垣技術を用いる一方で、土塁と空堀をも多用する日本の織豊系城郭では見ることの出来ない設計となっています。また、今回は未訪でしたが、北西400メートルの場所にある「豆毛浦(ツモポ)鎮城」の石垣遺構を取り込んでいます。(豆毛浦は機張の旧名、鎮城は朝鮮の拠点城郭)
『石垣』
『瓦』
機張倭城は登城用に階段が整備されているのですが、階段から少し外れて見学していくと空堀や土塁、そしてその先に登り石垣を見ることが出来ます。
『登り石垣』
『空堀』
また、角石の一部が崩されていたり、天場を破壊していたりと形式通りの破城の跡が見られます。朝鮮出兵の終結後に破城をしたのでしょうか?
『破城の跡』
土の城と織豊系城郭が入り交じった、プロトタイプ近世城郭とも言える倭城の中でも、この機張倭城に見られるような築城者が試行錯誤しながら築城した、移行期の遺構は城郭ファンには是非とも見て欲しいものです!
この記事は続きます。
林浪浦倭城の周辺地図
機張倭城の周辺地図
機張郡機張邑竹城里山52-1
城将:黒田長政