【現地説明会】中世の自治都市・堺環濠都市の発掘調査

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 大阪府堺市の熊野(ゆや)小学校校舎増築工事に伴う「堺環濠都市遺跡(略号SKT)1166地点」の発掘調査が、平成28年5月より行われています。

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堺環濠都市とは

 中世に町民の代表である会合衆による高度な自治を行っていた都市・堺。その中心部分である区域は、東西1km、南北3kmに及んでいました。現在も南海本線堺駅付近で、その環濠の名残を見ることが出来ます。

 

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『現在も用水路として活用されている堺の環濠』

 伝仁徳天皇陵として有名な大山古墳の西側に築かれた堺の街は、東西に大和国へと続く竹内街道・長尾街道、南北に高野山や紀伊へと繋がる熊野街道・西高野街道が通る交通の要衝で、交易の中心として栄えていました。

 堺が本格的な都市形成を成したのは、明徳の乱(1391年)の恩賞として和泉国守護となった大内義弘が国衙(県庁所在地のようなもの)機能を移してからで、大内氏失脚後は細川京兆家が街を支配しました。細川家は、その守護所(守護が政治を行う場)を堺に隣接する大山古墳周辺の丘陵へ置いています。

 その後も、交通や貿易の拠点であった堺は、畿内を支配する管領家・畠山氏や三好氏、松永久秀などによる争乱の舞台となり、戦国末期には織田信長豊臣秀吉の代官支配を受け入れます。しかしながら、権力者が変わっても一貫して都市の自治は保っており、貿易や文化の先進地域として、織豊政権下でも大きな影響力を保ち続けていました。

防御施設としての環濠

 堺の街を囲む環濠は、河内守護代・遊佐長教による天文十八年(1549年)の書状に「堺津堀際」にて合戦と書かれていることから、十六世紀半ばにはすでに成立していたと考えられます。その他にも、

東側は満々と水をたたえる深い堀で囲まれている。『16・17世紀イエズス会日本報告書(ガスバル・ヴェレラ)』

堺南荘が東堀普請をおこなっている。『言継卿記』

など、環濠の存在は近隣諸国や、ヨーロッパの宣教師の間にも浸透していたことがわかります。

 今回の発掘調査で見つかったのは、東側の環濠の一部で、堀の幅は8.5m、深さは2.2mでした。しかし、以前の学校校舎建築の時に堀の上部が一部破壊されていますので、実際にはもっと大きな堀であったと思われます。

 都市自治を維持するために、戦国後期には巨大な惣構えである環濠を築いていた堺。永禄十二年(1569年)に堺の商人であった津田宗及が書いた茶会記『宗及他会記』には、

去年十月此より、堀をほり櫓をあれ『宗及他会記』

とあり、織田信長の矢銭(臨時の徴税)要求や、その後に大坂を拠点とした豊臣秀吉の勃興など、緊張した状況下での都市の軍事施設化が窺えます。

 

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『発掘された環濠(熊野小学校にて)』

今回の発掘地点

平成28年5月より発掘調査。
http://jibusakon.jp/shiromeguri/kinki-shiro/osaka-shiro/sakaikangou

おわりに

 天正十四年(1586年)には、豊臣秀吉によって堀を埋められ、自治都市としての堺は終焉しました。しかし、その後も環濠は規模を縮小して用水路として活用されて現在に至っています。

 また、今回の調査では中国磁器や伊万里や美濃焼などの国産陶磁器、煙管に鋳造の鋳型、贅沢な食生活を想像させる獣骨(珍しい!)や貝殻など、その繁栄を示す遺物が出土しています。

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『獣骨や鋳型など堺の繁栄を表すような出土品もありました』

管理人
管理人

 堺環濠都市は、同じ大坂の地で発展した寺内町が宗教施設を中心として環濠を築いていったのに対して、同じように環濠を持ちながら核となる施設が無いという点でも、中世日本の都市としては他とまったく比較できない希有のものでした。発掘調査は今後も続くそうですので、新たな発見に期待したいですね。

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