今帰仁城を見学した私たちは名護市に宿を取って3日目の行動を開始しました。目指すは世界遺産認定の座喜味城です!
世界遺産に認定されたグスクの1つで日本100名城。城壁に囲まれた連郭式の城郭で、三山時代には北山王の居城でした。北山国滅亡後も北山監守として、琉球王朝の北部支配拠点として重要視されていました。
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名護グスク
3日目の最初に訪れたのは名護市にある名護グスク。今帰仁城を拠点とした今帰仁按司の庶流である名護按司の居城です。名護按司は、北山王国中世代の王権が帕尼芝(羽地按司か?)によって滅ぼされた時に、一族でありながら帕尼芝側に寝返っています。
現在は公園整備されているのでアクセスは容易です。主郭を中心とした郭などがありますが、グスクらしい城壁や門などの遺構は見られません。しかし、グスクでは珍しい二重堀切があるのが非常に特徴的です。余談ですが、名護グスクに行く前には是非名護市役所に寄ってみてください。シーザーで装飾された役所の建物は非常にユニークです。
中世日本との関連性
沖縄が琉球王朝によって統一される以前の三山時代、現在の恩納村や金武町以北の国頭郡地域を支配していたのが北山王国でその居城が今帰仁城でした。この北山王国は、中国との交易によって栄えていた三山の中では珍しく日本との交流も盛んであったようです。源為朝が漂流して王になったというのは神話に過ぎないでしょうが、当時の日本と琉球の境界線であった、奄美大島あたりまで影響を及ぼしていたいた痕跡はそのグスクに見ることができます。
奄美大島のグスクは完全な土の城になっていて、堀切など日本式城郭の影響が各所に見られます。奄美大島で出会った郷土史家の方より、古代から中世の時代にも琉球と日本との交流は非常に活発であり、城郭技術も相互に影響しあっていたという話を聞かせていただいていたのですが、この名護グスクではそれを証明するかにように二重堀切が残っています。これはグスクでは非常に珍しく、日本との交流の中で影響を受けたことを示すものだと言えます。北部地域では、今帰仁城にも堀切があるらしいのですが、観光客の多い世界遺産の地でウロウロと探すのはさすがに怪しいので次回への宿題としておきます。
名護グスク周辺地図
座喜味グスク
今帰仁城を行程に入れると移動距離はどうしても長くなります。行程を組む上で悩ましいところではあります。大急ぎで名護グスクを見学した一行は、3日目のメインイベントである座喜味城を目指しました。
世界遺産に認定された5つのグスクの一つである座喜味城の魅力は、なんといっても城壁ラインの曲線美でしょう。主郭と副郭という単純な縄張りであるものの、曲線を描く石垣ラインが横やりの役割を果たしていて防御性を高めています。標高125mとグスクの中では高所にある座喜味城は、琉球王朝によって三山が統一された後、北山王国残党の蜂起に備えて琉球史上最高の名築城家であった護佐丸(?~1458)によって築かれました。
座喜味グスク周辺地図
渡具知泊グスク
座喜味城から少し南へ移動すると、第二次大戦の沖縄戦においてアメリカ軍が最初に上陸したという渡具知ビーチがあります。琉球王朝時代には中国との交易を象徴する「山原船」が行き交う美しい湾は沖縄八景の一つに数えられていました。
このビーチに隣接する渡具知泊グスク(トゥマイと読む)は石灰岩上に築かれたグスクで、遺構としては何も残っていないのですが周囲の奇石がとても良い雰囲気を出しています。伝承としては、家臣である本部大主の謀反によって居城を追われた北山王が、逃げ落ちて再起を図ったグスクと伝わっています。
渡具知泊グスク周辺地図
おわりに
座喜味城や渡具知泊グスクがある西部地域は、沖縄の美しい海岸が広がっており、そのビーチはマリンスポーツや海水浴が楽しめる観光地になっています。グスク目的で来た私たち一行は無粋にもさらに南下を続けましたが、少しもったいないことをしました(^_^;) (この記事は続きます)