【喜界島で城跡や史跡を訪ねてみた】(1)掩体壕・俊寛の墓・珊瑚のトンネル・大城久・雁股の泉・ムチャカナ公園・平家上陸の地

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 離島の城めぐりシリーズ(城跡があまり無くて史跡観光な場合も・・・)を始めてみようということで、まず最初に鹿児島県の喜界島での城跡探しの記事です。決して、2014年6月発売の「水曜どうでしょう リヤカーで喜界島一周」DVD発売に便乗してではありません(^_^;)

 

 

 

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喜界島とは

 鹿児島と沖縄の中間に位置する奄美群島の北東に浮かぶ海岸線長50キロ弱の小さな島で、全島が鹿児島県大島郡喜界町に属しています。奄美大島へ大阪や東京、福岡などから直通の飛行機があるので、まずは大阪空港から奄美大島空港へとフライトして、乗り継ぎの飛行機で喜界島入りをしました。喜界島への飛行機便は1日3便、奄美大島もしくは鹿児島空港から発着しています。

 

 

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喜界島の歴史

 奄美群島が日本史に初見されるのは文武二年(683年)に阿麻弥人が朝廷に対して特産物を朝貢したという日本続記の記述です。その後の奄美大島を中心とした勢力の動きについて詳しくはわかっていませんが、長徳三年(997年)には武装した奄美島が九州沿岸を略奪したので、太宰府が「貴駕島(キカイガシマ)」に南蛮追討令を発しています。(日本記略)

 この時点では喜界島が奄美群島の島々と同一行動をしていたのではなく、太宰府の管轄下にあったことが窺えます。古代律令国家時代においては、奄美大島と喜界島が日本の国境線の一つであったのでしょう。また、喜界島から遠く離れた東北の平泉において、中尊寺金色堂螺細平塵台大長寿院の螺細平塵台など、琉球や奄美群島の特産である夜光貝の加工品を使った装飾品が見られるのは南方諸島の活発な交易を示しています。

 朝鮮で編纂された高麗史では、「薩摩州」が螺細工芸品や法螺などを独自に献上したと書かれていますが、平安時代も中期の頃になると太宰府の威令も届かなくなり、私交易が遠く朝鮮半島や大陸にまで及んでいました。喜界島など奄美群島は、薩摩や大隅に赴任した国司にとって莫大な富を生み出す源となっていて、中央の摂関家に献上された硫黄や夜光貝、法螺などは京や奈良で最高級の奢侈品へと加工されて珍重されています。これらの品々は遠く中国の皇帝にまで伝わっていたことが記録に残っています。(宋史日本伝)

 源平の時代になると、薩摩国阿多郡司となった阿多忠景が奄美群島の交易によって一大勢力なり、薩摩や大隅の庄園を押領しています。「高橋(阿多)殿の御代ならば黄金の桝で米計る」と世間に伝わるほどの財を持ち、朝廷の意を受けた平家貞(筑後守・平家物語では清盛の爺として有名)の討伐軍をも退けています。この阿多忠景は結局は喜界島にて没落(文治三年 吾妻鏡)しますが、この忠景が源為朝の舅であったことから、為朝の琉球王朝始祖伝説が広く伝わるようになります。

 平家の残党や阿多忠景の没落に見えるように、喜界島は平安末期の頃には日本と海外との境界線上にある島として認識されていたようです。鎌倉時代には北条得宗家(嫡流)の被官であった千竈氏が喜界島を含む奄美群島を領有します。千竈氏の領有は雨見郡 私領」(金沢文庫)とあるように、日本の外にある私有地として捉えられていました。一般の鎌倉御家人ではなく、北条得宗家の直臣として幕府ではない得宗家の私的な海外交易の代官だった可能性もあります。

 同時期には、北の十三湊にて交易活動に従事する安東氏をも従えていた北条得宗家は、従来の荘園体制以外に交易による独自の財政基盤を築いていたわけであり、地頭の親分でありながら後の悪党(非正規御家人)のように土地に縛られない商人的な性格を持っていたというのは面白いですね。

掩体壕

 あいにくの雨の中、空港からレンタカーを借りて最初に行ったのは「掩体壕」です。戦争遺跡というと眉をひそめる人もいますが、歴史を学ぶということは、過去にあった事実を正確に受け止めたうえで未来へ活かすということであり、臭いものに蓋をする的な発想で戦争遺跡を放置しがちな今の文化財行政には疑問を感じますね。

 この掩体壕は、昭和6年に開設されて南方との中継基地として使用された喜界島海軍基地にあったもので、太平洋戦争末期の昭和十九年に南方中継や本土防衛の重要性から大幅な整備拡張が行われています。この時、特攻隊に所属する戦闘機を爆撃から守るための格納庫として建設されました。現在もコンクリート製の遺構が良く残っています。

 

kikaijima-entaigou

kikaijima-entaigou-2『掩体壕』

掩体壕の周辺地図

 

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 現地に駐車スペースがあります。

俊寛の墓

 掩体壕のすぐ近くには、今回の旅のメインディッシュである俊寛の墓と像があります。俊寛の島流しネタというのは昔から歴史好きの間ではよく使われていたフレーズですが、2012年HNk大河ドラマ「平清盛」の放送で個人的に俊寛熱が再燃して、「俊寛の気持ちを体験してみよう!」と一人盛り上がったのが今回の旅のはじまりでした(^_^;)

 

俊寛(しゅんかん、康治二年(1143年)〜治承三年(1179年))は平安時代後期の真言宗の僧。安元三年(1177年)、藤原成親・西光らの平氏打倒の陰謀に加わって鹿ヶ谷の俊寛の山荘で密議が行われたが露見して鬼界ヶ島へ流された。(鹿ヶ谷の陰謀) 同じく流刑となった藤原成経・平康頼が赦免されたときも許されずに訪ねてきた侍憧の有王に手紙を託して亡くなった。(Wikipediaより)

 

 平清盛率いる平家全盛の世に、政権奪還の陰謀を計画するも失敗、流刑地であった鬼界ヶ島へ流されて、その地で人生を終えた俊寛ですが、昔からこの「鬼界ヶ島」とはどこなのかというのが個人的に疑問でした。「鬼界ヶ島=喜界島」ということで、この島には俊寛の墓が伝わっていることが今回の旅のきっかけです。

鬼界ヶ島とはどこか?

 俊寛が流された鬼界ヶ島とは諸説があってはっきりとした場所は不明です。喜界島の他にも鹿児島県の硫黄島や長崎県の伊王島が候補として挙がっています。平安の頃に「喜界」とは、漠然と異境の地を指していて、朝廷の威令が届かない海外というイメージで捉えられていました。この鬼界ヶ島を考えるヒントとしては、

  • 平家貞の阿多忠景追討の失敗は「風波を凌がず」という記述(吾妻鏡)   

     海の果てに遠く離れた僻地を表していて、硫黄島の場合、薩摩(鹿児島県)の対岸ともいえる位置にあって川辺郡の一部と認識されており流刑地ではない。伊王島も同様。

  •  天野遠景が喜界島追討したときに朝廷が「彼の島の境は日域太だ其の故実を測り難し」(吾妻鏡)と反対している。

     源頼朝の代官である天野遠景が、平家や源義経の残党を追討しようとしたときに、「日本ではないから」と朝廷が認識していた。硫黄島などは古くから荘園の一部として認識されていた。

  • 「肥前国鹿瀬庄より衣食を常にくられければ俊寛僧都も康頼も命をいきて過ごしける。」(平家物語)の記述は鬼界ヶ島への物流ルートを示している。

     鹿瀬庄とは現在の佐賀市の西南にあった荘園。俊寛と共に流された藤原成経の舅であった平教盛の領地であり、ここから物資が運ばれていたことを示しています。

     この記述だけならば、佐賀市に近い伊王島の可能性もあるわけですが、「此の島では硫黄と云うものを掘り、九国よりかよふ商人にあひ、食い物にかへなどせし」(平家物語)と、商人が硫黄を求めてしばしば立ち寄っていることがわかります。喜界島では硫黄が産出されていて、琉球王国は大陸との貿易に輸出品としてこの硫黄を主として扱っていました。喜界島は、硫黄を大陸へと運ぶ南島路交易ルートの拠点であったわけですね。

まとめると、

    1. 1.朝廷の威令が届かない異境の地
    1. 2.風波が強い僻地
    1. 3.北の奥州藤原家と同様に源頼朝が支配下に置くために大規模な追討をしている。
    1. 4.硫黄が採掘されており、海外との交易ルート上の拠点であった。

 特に4の硫黄交易ルートというのは、俊寛が流されたのが喜界島であるだろうとの有力な証左であると思います。(あくまで私感ですのでチラシの裏的な話と思ってください(^_^;))

 

syunkan-2『俊寛の墓と伝わるが・・・・』

syunkan『俊寛像』

俊寛の墓の周辺地図

 

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 公園の駐車場が利用出来ます。

珊瑚の石垣と木のトンネル

 掩体壕、俊寛の墓を見学した後は島の沿岸沿いに車を走らせます、まずは珊瑚の石垣へ。珊瑚は喜界島など南西諸島の魅力の一つであり、その珊瑚石垣からガジュマルの木が形作っているトンネルは心が安らぐ景色です。

 

ガジュマル(学名:Ficus microcarpa、漢名:細葉榕)は熱帯地方に分布するクワ科の常緑高木。日本では屋久島・種子島以南に分布している。(Wikipediaより)

 

sangoishigaki

sangoishigaki-2『珊瑚の石垣と木のトンネル』

珊瑚の石垣と木のトンネルの周辺地図

 

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 現地に駐車スペースはありません。集落に近いので見学には注意が必要です。

大城久(ウフグスク)

 グスクというと石垣の城壁が特徴的ですが、奄美群島では土造りのグスクが主体となっています。大城久(ウフグスク)は、城郭というよりは環濠集落に近い性格で、夜光貝などを加工する生産拠点として、喜界島の交易を支えていたグスクです。残念ながら推定地のあたりは木々が生い茂り、遺構を探すことは困難でした。(現時点で発掘調査などはされていない)

 

ufugusuku『大城久(ウフグスク)は推定地で遺構は確認できない』

大城久(ウフグスク)の周辺地図

 

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 集落内のため、見学には注意が必要です。

雁股の泉

 雁股の泉は、保元の乱に敗れた源為朝が琉球に渡ろうとした際に、天候が荒れて喜界島の沖合いで停泊しているときに、島の住人を確認するために放った雁股の矢が刺さって出水が沸いたとされる場所です。為朝琉球王朝始祖伝説のはじまりの地ですね。伝承が真実かどうかはわかりませんが、喜界島には源氏平家どちらの落武者伝説があるのが興味深いですね。

 

保元の乱(ほうげんのらん)は、平安時代末期の保元元年(1156年)7月に皇位継承問題や摂関家の内紛により朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、双方の武力衝突に至った政変である。(Wikipediaより)

 

 

ganmataizumi-2『雁股の泉』

雁股の泉の周辺地図

 

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 現地に駐車スペースがあります。

ムチャカナ公園

 ムチャカナ公園は、奄美群島の民謡である「ムチャ加那節」の舞台である小野津集落を見下ろす高台にある公園です。

 

『むちゃ加那節(うらとみ節)』
       

ハレイー喜界(ききゃ)やィ小野津(うのでぃ)ぬョ
       ヤーレー十柱(とぅばや)
       (囃子)スラヨイヨイ
     十柱(とぅばや)むちゃ加那ヨイ
       (囃子)スラヨイヨイ
     ハーレー十柱(とぅばや)~むちゃ加那ヨイ
       (囃子)ハーレー十柱
           むちゃ加那ヨイ

       

ハレイー青海苔(あおさぬり)はぎが
       ヤーレー行(い)もろ
       (囃子)スラヨイヨイ
     行もろやむちゃ加那ヨイ
       (囃子)スラヨイヨイ
     ハーレー行もろや
          むちゃ加那ヨイ

 

 薩摩藩の圧政下にあった奄美大島の美女・ウラトミとその娘であるムチャ加那に関する伝承がある小野津集落。島唄として現在に語りつがれている物語とは、

 

 文正元年(1466年)に琉球王国の侵攻を受けていた奄美群島は、慶長十四年(1609年)の薩摩藩侵攻後は琉球から薩摩藩に割譲されました。薩摩藩統治下では、各地には検地の竿入れを任務とする竿入奉行が派遣されました。この竿入奉行は島民から竿打殿(ソウチドン)と呼ばれ、その権威は非常なものでした。

 加計呂麻島の生間というところに、島一番の美人と聞こえたウラトミという美しい娘がいました。代官はウラトミに島刀自(現地妻)になるよう命じました。しかし、ウラトミがこれを拒否すると、代官はウラトミ一家や親族にまで重税を課すなどの仕打ちをしてウラトミに島刀自になるよう迫ります。悩んだ末に両親は、親族や集落に迷惑がかからないようウラトミを追放することを決心して、ある夜に食料と三味線を積み込んだ小舟で海に向けて流したのでした。

 そのウラトミが流れ着いたのが、喜界島の北端にある小野津集落の十柱海岸でした。ウラトミは、小野津の人たちに助けられて同地で暮らしていきますが、一人の島役人と恋に落ちます。しかし、男性は島役人を勤める名家の婿養子で、子供もいましたが、ついにはふたりは駆け落ちをします。ふたりの間には5人の娘も生まれました。娘たちは母に似て美人であり、とりわけ次女の「ムチャ加那」は、村の青年たちを虜にするほどの女性へと成長しますが、嫉妬した村の娘たちはムチャ加那に嫌がらせをするようになります。

 そしてついには、嫉妬に狂った娘たちによってムチャ加那は海に突き落とされて死んでしまいました。ムチャ加那の墓はその後、十本の柱のような木髭を垂らすガジュマルの大樹になったと伝わっています。母のウラトミは、この事件後にムチャ加那のあとを追って入水自殺したといわれていています。

 

 

mutyakana

mutyakana-2『ムチャカナ公園にはウラトミ、ムチャカナ親子を偲んだ碑が建つ』

ムチャカナ公園の周辺地図

 

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 公園駐車場が利用出来ます。

平家上陸の地

 喜界島北部の志戸桶ビーチには、壇ノ浦で滅亡した平家の残党が琉球を目指したときに流れ着いたという伝承があり、上陸の地を示す石碑が建っています。偶然流れ着いたと云うよりは、当時の日本人にとって「鬼界」であった喜界島は今でいう海外逃亡みたいな感覚だったのでしょう。日宋貿易で財を成した平家ですので、もしかすると偶然の漂着ではなくて喜界島に商業的な拠点もしくは縁があったのかもしれません。

 

heikejouriku

heikejouriku-2『壇ノ浦で敗れた平家はこの海岸へと上陸したと伝わる』

平家上陸の地の周辺地図

 

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 観光駐車場が利用出来ます。

おわりに

 喜界島初日はあいにくの雨模様でしたが、島内には藪を漕いで登るような険しい城跡があるわけではなく、面積もさほど大きい島ではないのでのんびりとした史跡めぐりができます。

 

管理人
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この記事は次回へ続きます。

 

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