日本という国は、歴史上ただの一度も市民革命を経験していません。およそ150年前に起きた明治維新も「革命」なのか「政権交代」なのか議論の分かれるところではありますが、個々の活動家が導火線にはなったものの最終的な決め手は組織の活動であった明治維新は、やはり革命ではなく政権交代に過ぎなかったと個人的に考えます。
幕末のヒーローとして人気のある坂本龍馬の出身地である土佐において、勤王倒幕の活動家たちによって組織された土佐勤王党を率いて国事に奔走した、武市半平太という人物がいたことはご存じでしょうか? 歴史にあまり興味の無い人でも名前ぐらいは知っている龍馬に比べると、その知名度はけっして高いとは言えないのですが、龍馬と共に土佐を代表する維新志士のひとりです。
高知県の武市半平太関連史跡
武市半平太生家
武市半平太(1829~1865)は土佐藩の郷士で白札格(上士階級に準ずる上級郷士)。号は「瑞山」と称して剣は鏡心明智流皆伝の腕を持ち、学問に優れ人望が厚い傑物でした。故郷の土佐に帰郷した後は、尊皇攘夷を掲げる土佐勤王党を結成して土佐の藩政改革を訴えます。反対する土佐藩執政の吉田東洋を暗殺した半平太は土佐藩の実権を掌握、長州藩などと連携して勤王活動家の組織化を進めながら尊皇倒幕の下地を創り上げましたが、「八月十八日の政変」によって、勤王勢力が失脚すると方針を変更した藩により処刑をされ、明治維新を見ること無くこの世を去っています。
『獄中で書いた自画像』
半平太の生家跡は、現在も江戸時代の豪農身分の邸宅としての面影がよく残っています。土佐藩は山内一豊(こちらも大河ドラマになったのに、今の高知では存在感が薄い・・・)が、関ヶ原合戦に改易された長曽我部家臣団を冷遇したために、帰農するか郷士身分になるしかなかったのですが(半平太に暗殺された吉田東洋は長曽我部家の家老・吉田大備後の子孫というのは皮肉ですが)、その中でも筋目が良かったり、功績があった者は上士と郷士の間である「白札」になることができました。土佐勤皇党の主力を構成していたのは、こういった長曽我部家遺臣の子孫たちや、郷士株を買った商人出身の坂本家(もちろん明智光秀の子孫ではない)など下士・豪農豪商階級でした。
現在は、生家跡に隣接して半平太夫妻の墓や資料館もあります。資料館は民間有志の経営ですが、郷土での半平太への尊敬が感じられる施設であり、生家跡と共に半平太の功績を伝える施設となっています。
『武市半平太生家』
『武市半平太と妻・富子の墓』
『隣接する資料館』
武市半平太生家跡の周辺地図
幕末の勤王家である武市半平太の生家跡。墓地も隣接している。
武市道場
半平太は、江戸にて鏡新明智流の剣術を修行していました。鏡新明智流の桃井道場は、「位の桃井・技の千葉・力の斉藤」と北辰一刀流千葉道場・神道無念流斉藤道場と並び江戸三大道場と称された一門で、道主の桃井春蔵は、観応の擾乱にて足利直義の側近であった桃井直常の子孫を称していました。
現在は途絶えてしまい、警視庁に伝わる剣術に一部が残るのみとなってしまっているこの流儀を学んだ半平太は、この地において道場を開き、剣術だけでなく、学問や尊皇攘夷の思想などを教え、土佐勤王党を生み出す下地を準備していました。道場跡は現在、公園になっており石碑が建っていますが、実際に道場があった位置は公園より北に200mほどの場所であったそうです。
『武市道場の跡には席が建つ』
武市道場跡の周辺地図
武市半平太の剣術道場跡。公園内に石碑があるが実際の場所は北へ200mあたりらしい。
半平太殉節地
土佐藩の刑死場跡には、半平太殉節の石碑が建っています。八月十八日の政変後、脱藩することなく土佐藩の謹慎を受け入れた半平太。前藩主で土佐藩主・山内忠義の父である山内容堂は、土佐勤王党に対して弾圧を指示、2年近くの投獄を受けた半平太はこの地で切腹をしました。半平太が読んだ辞世の句は、
「ふたゝひと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり」
享年は37才、子どもはおらず、残された妻の富子はその後苦しい生活を耐え抜いたと伝わります。龍馬のように藩を捨て、脱藩浪士として生き抜く方法はあったはずの半平太。しかし、革命を志す一方で武士らしく節を重んじた彼は、あくまで土佐を代表する男としての行き方を選んでしまったのでしょう。
『武市半平太殉節の地』
半平太殉節地の周辺地図
刑死場。
坂本龍馬生家
半平太の盟友でもあった坂本龍馬の生家は、半平太とは違い城下町でも好立地にありました。郷士階級の中でも商人出身の坂本家は、城下でもかなり裕福な家だったといいます。上昇志向を貫いた半平太と自由に生きることを選んだ龍馬。ふたりの性格はその生い立ちにも関係性を見いだすことが出来るのかも知れません。
『坂本龍馬生家跡』
坂本龍馬生家跡の周辺地図
石碑が建つ。
おわりに
小説やドラマの影響は絶大で、土佐の維新志士といえば坂本龍馬というのが誰しもが思い浮かべる人物です。もちろん、龍馬が果たした役割に異存はないのですが、土佐藩だけでなく京都の尊皇攘夷運動を主導し、反幕府活動をまとめあげたのは龍馬ではなく、土佐勤皇党の党首であった武市半平太が主導したこともまた事実。
もし、維新後も生きていることが出来ていたならば、桂小五郎や西郷隆盛と並ぶ維新の元勲になっていたのは間違いありません。長曽我部元親や坂本龍馬だけでなく、土佐には武市半平太ありと評価される日がいつかは来て欲しいですね。