2008年に、城仲間と対馬の史跡巡りを目的に訪れたのですが、国境の島の魅力に2010年再訪をしました。今回は壱岐とあわせての旅です。
仕事の都合で有休が取られなかったので、前泊はあきらめてフェリーで対馬へ渡ります。博多港を出港するのがかなり遅い時間なので、仕事が終わってから新幹線に飛び乗れば大阪からだと間に合います。(注:2010年当時)
中村館・日新館・防火壁
中村館
対馬のレンタカーは早朝対応してくれるのですが、それでもフェリーの場合はかなり早い時間に着くので、まずは歩いて行ける厳原中心部を散策します。
現在の南対馬警察署にあった中村館は応仁二年(1468年)に宗貞国が政治の中心を佐賀(峰町佐賀)から国府(厳原)に移った時に築かれたもので、宗氏の前に対馬を支配していた阿比留氏の影響を完全に排除する目的があったと考えられます。(今でも対馬では阿比留という名前が多い)
中村館の周辺地図
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日新館門
対馬藩の藩校であった日新館の門は、元々は宗氏の屋敷門を移築したものでした。今でも国道沿いに現存しています。
日新館門の周辺地図
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今屋敷の防火壁
対馬の街で是非観て欲しいのが今屋敷の防火壁。大火に悩まされていた対馬藩では、天保十二年(1841年)に最初の防火壁をつくり、大火による延焼を防ごうとしました。
府中(厳原)の町家を護った遺構は全国的に珍しく、長崎県の指定有形文化財に指定されています。
今屋敷防火壁の周辺地図
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金石城大手櫓門・桟原館移築門
宗氏の居城であった金石城は、天守閣を設けずに大手櫓門で代用していました。現在の櫓門は復元されたものではあるのですが、元々の古材を用いて復元しているのである意味では現存櫓門と言えなくもないですね。
金石城大手櫓門の周辺地図
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桟原館移築門
桟原館(さじきはらやかた)は、江戸中期以降の対馬藩の政庁です。桟原の由来は、練武のため桟をもうけた場所とも、宗重尚が太宰府から兵を率いて、対馬の支配者であった阿比留親元を討って首級を実験するために桟を設けた所とも伝わっています。
桟原館は陸上自衛隊の駐屯基地内にあるために、多くの遺構は見ることが出来ませんが、郷土資料館の脇に高麗門形式の城門が移築されています。
桟原館移築門の周辺地図
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半井桃水館・志賀鼻台場
半井桃水館
半井桃水(ならいとうすい)は、樋口一葉の師であり、その旧宅が資料館として整備されています。周辺は、朝鮮通信使が命綱であった対馬藩の無理を表すような特徴ある武家屋敷がよく残っています。
万延元年(1860)、長崎県対馬の府中(厳原)に生まれる。 藩主・宗家の典医の家の長男で、幼名泉太郎のちに冽(きよし、れつ)と名乗る。少年時代を釜山倭館で過ごし、上京して共立学舎に入学。再渡韓後、朝鮮から京城事件などの記事を送信し、帰国後、東京朝日新聞に入社。小説家・記者として活躍し、日露戦争にも記者として従軍。晩年は邦楽三昧の日々を送る。樋口一葉の師であり、思慕の対象であった男-。大正15年11月21日(1926年)歿 65歳。観清院謡光冽音居士 文京区本駒込・養昌寺。(半井桃水館サイトより)
半井桃水館の周辺地図
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志賀鼻台場
幕末のペリー来航後には、日本各地で海防が叫ばれて幕府や諸藩は砲台場を築いて防備を固めましたが、国境の島である対馬藩では釜山港より最新の情報を仕入れており、寛政四年(1792年)には遠見番所を設置して八郷八組の海岸警備体制を敷いていました。
安政六年(1859年)の開港後には、イギリスのアクチオン号が対馬湾内を測量したり、発砲事件を起こすなどの騒動をおこした他、文久元年(1861年)にもロシアのポサドニック号が番所を襲撃したりと緊張が高まっていました。
状勢の悪化に対応するため、対馬藩は海防の強化として厳原港を抑える志賀鼻岬に、佐賀藩より12・24・36ポンドの大砲を三門購入して設置した砲台場が築いています。
参考文献 「城郭陣屋台場要害事典」(西ヶ谷恭弘 東京堂出版)
志賀鼻台場の周辺地図
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万関瀬戸・伝嶋左近の墓
万関瀬戸
万関瀬戸は明治三十三年(1900年)に旧日本海軍によって開削された運河です。対馬西部の浅茅湾と東部の三浦湾を結んだ運河は、明治三十八年(1905年)の日露戦争時には、日本海海戦へと出撃する水雷艇が利用していました。対馬に来たときは是非に見て欲しい雄大な景色です。
万関瀬戸のの周辺地図
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伝嶋左近の墓
「三成にすぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」と歌われた石田三成の重臣である嶋左近。その墓と伝わるものが対馬にはあります。大和の国人から三成の家臣となった左近の墓がなぜ対馬にあるのでしょう?
左近の対馬出身説は、対馬に島性が多いことからも古くから伝わっていますが、関ヶ原軍記大全にある
嶋は関ヶ原の時諸手と相戦う事急にして万夫不當の英雄也。終に大敵の囲みを切抜、向う者なき故難なく只一人本国対馬へ下りけり。古今例多き事也。(関ヶ原軍記大全 巻ノ六より)
が根拠の一つとなっています。
たしかに左近の前半生は謎な部分が多いですが、衆徒国民という独特のシステムであった大和国で、他国者が活動しているのは考えにくいですし、各種の記録上で近畿での左近の動きは確認されていることから可能性は低いと言えます。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に対馬出身の「嶋左馬」という人物が戦死しており、この人物と混同されている可能性が強いですね。
しかし、対馬説がまったくのデタラメかというとそうではなく、「対馬島志」には応永八年(1401年)に宗頼茂の叔父である島新六秀重が背いたとの記事があるのですが、この新六という名前は左近の息子に見られる他、左近の娘と尾張藩剣術指南役であった柳生兵庫との間に生まれた剣豪・柳生連也斎も最初は「島新六」を名乗っています。
史実は明らかにしようがないですが、山深き場所に左近の墓と伝わる石塔がひっそりと建っています。石田三成ファンには見て欲しい史跡です。
参考文献 「平群谷の驍将・嶋左近」(坂本雅央 平群史跡を守る会)」
伝嶋左近の墓の周辺地図
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金田砲台
古代の山城である金田城は対馬最大の見所です。二度目の対馬も時間を取って見学しましたが、古代の遺跡だけでなく山上に残る日露戦争時の遺構も是非見て欲しいですね。国家予算によってふんだんに使われたコンクリートの建造物は今でも考えられない程の厚みがあります。
金田砲台の周辺地図
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おわりに
対馬は何度訪れても素敵な島です。古代から近代までの歴史を感じることが出来る場所なので歴史ファンや城好きには是非行って欲しいです。
二度目ということで、対馬には止まらずに夕方のフェリーで壱岐に渡りましたが、壱岐とセットだと行程に無理が出るので、はじめて訪れる方は対馬に絞って計画を立てた方が良いでしょうね。(終)
対馬全島の史跡地図
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