グスクめぐり(7)【浦添城・浦添ようどれ・伊祖グスク】

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 渡具知泊グスクを見学した後は再び沖縄本島中央部へと戻り、琉球王朝はじまりの地である浦添市へと向かいました。

グスクめぐり(6)【名護グスク・座喜味城・渡具知泊グスク】(沖縄県読谷村】

名護グスクは遺構としてはあまり残っていないがグスクには珍しい二重堀切が残る。世界遺産の一つである座喜味城は曲線が美しい石垣が魅力。渡具知泊グスクは石碑のみだが付近の奇石は一見の価値あり。

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浦添城

 浦添グスク・ようどれ館を併設した浦添城公園として整備されている浦添城は、首里城が築かれるまでの間、三山の一つ中山王国の居城でした。

浦添城案内図『浦添城案内図』

中山王国

 「琉球王朝」という名称が実は正式な国号では無いということはあまり知られていません。中国史における三国志時代のように沖縄地方を三分した王国が覇権を争っていた三山時代(14世紀から15世紀)、現在の沖縄市など沖縄本島中央部を支配していたのが中山王国で、北山王国・南山王国を滅ぼして琉球を統一します。統一を果たした尚巴志(1372〜1439)の第一尚氏王朝から始まる統一王朝を一般的には琉球王朝と呼びますが、正式な国号は中山王国のままでした。

 浦添城は、琉球の地に最初の王朝と建てたとされる英祖王朝から王権を簒奪した察度(1321~1395)が居城を首里城へ移すまでの200年あまりの間、琉球の中心地でありました。中国の元代に製作された青磁器が見つかるなど、大陸との交易が盛んであったことを示すものに加えて、平成9年の大規模調査では高麗瓦の窯元跡が発見されています。

 滴水瓦とも呼ばれるこの瓦は、本州では豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に現地の職人から技法を持ち帰った後に広まって姫路城などにも用いられていますが、それより200年以上も前の浦添城に用いられていたことは驚きです。

 従来は朝鮮半島より輸入していたと考えられていた高麗瓦を、独自で作成する技術を持っていたということが証明されたといえます。中国や東南アジアとの交易で栄えた琉球王朝は、当時の日本を超える技術や文化を持っていた先進国であったのでしょう。余談ですが、高麗瓦の本家である朝鮮半島ではまだ窯元跡は発見されていません。

カガウンカーは井戸という意味『カガウンカーは井戸という意味 信仰の対象となることも』

浦添城

 東西400m・南北80mの隆起珊瑚礁による断崖の上に築かれた浦添城は、伝説の舜天王の時代は除いたとしても英祖王~察渡王までの200年あまりの間、中山王国の居城として拡張を続けてきました。比較的小規模なものが多いグスクの中で、八千坪もの広大な城域は今帰仁城・首里城に次ぐ巨大なもので中山王国の繁栄を象徴しています。

 城内からは高麗瓦の窯元跡の他に黄金のメッキ細工が発見されていて、城の装飾に使われていた可能性から金の細工場があったのではと指摘されています。浦添城には琉球史上の名君の一人である察度王(英祖王朝に代わって察渡王朝を建てた人物)の時代、金の産出が無い琉球において畑に金がゴロゴロと転がっていたという伝説があるのですが、察度王時代の中山王国が諸外国との交易で栄えていたことを表しています。

 中山王国がどこから金を入手していたのかは不明ですが、平泉にある中尊寺金色堂には琉球の夜行貝が螺鈿細工に用いられているので、遠く離れた東北と琉球が交易していた可能性も十分に考えられます。日本では国内の流通市場というのは豊臣秀吉の登場を待たないと確立されませんでしたが、「海の交易路」を持っていた琉球王朝にとっては東北地方は私たちが想像する以上に近い存在だったのかもしれません。

浦添城

浦添城2『強大な権力を象徴する浦添城』

当山の石畳道と安波茶橋

 浦添城からほど近い市街地の中に「当山の石畳道」があります。琉球王朝は、尚寧王(1564~1620)が首都である首里城と行政区分である間切に設置された番所(日本でいう代官所のようなもの)を結ぶ街道を整備したのですが、この街道を宿道と呼んで宿切という宿場町を置いています。

 首里城から浦添を経由して宜野湾へと行く宿道は普天間街道であり、石造りの橋をかけて「馬ドゥケーラシ(馬が転ぶという意味)」と呼ばれる急な坂道には石畳道を整備しました。こういった宿道は首里城から各地の間切へと放射線状に設置されています。当山の石畳道は薩摩藩の侵攻や第二次大戦によって崩壊していたのですが、現在は北橋と南橋からなる安波茶橋(あはちゃはし)と共に復元整備されています。

当山の石畳道『当山の石畳道』

安波茶橋『安波茶橋』

浦添ようどれ

 浦添城に隣接する山腹に堀込墓式で造られた浦添ようどれは、西室(英祖王陵)と東室(尚寧王陵)の二つの墓室を中心に墓門や石牆(石垣囲い)で形成されています。不思議なのは初期王朝を建国した英祖王(1229~1299)と第二尚氏王朝7代目である尚寧王がなぜ隣接して葬られているかということです。両者の生きた時代には400年の間がありますし、第二尚氏の陵墓は首里城に近い世界遺産でもある「玉陵(たまうどぅん)」があるにもかかわらずです。

 おそらくこの背景には、尚寧王が分家である浦添家から王を継いだということもあったのでしょう。琉球王朝の王統は尚寧王の死後に再び本家へと戻りますが、肩身の狭い分家出身の王としては、伝説の王であった英祖王と並んで埋葬されることによって、その正当性や自らの出身家である浦添家の地位向上を狙ったのではないでしょうか。薩摩の島津氏に屈服して奄美諸島を割譲した不名誉や分家出身の王というのは、尚寧王にとっては苦しい胸の内だったのでしょうし、死後に生まれ故郷の浦添に帰ることを望んだのは苦難の時代に孤独な王としてはささやかな願いであったのでしょうね。

浦添ようどれ2

浦添ようどれ3

浦添ようどれ『戦争で破壊された遺構は復元整備されています』

伊祖グスク

 琉球史上はじめて統一を果たしたとされる英祖王の居城であった伊祖グスクは、現在は伊祖公園として整備されていますが、野面積みの石積みが残るほかはあまり良好な遺構は存在しません。しかし、「支配する」という意味がある浦添の地を一望できる台地に築かれたグスクからの眺望は、在りし日に浦添の地から身を興して琉球を統一した英祖王の気分を感じさせてくれます。

伊祖城案内図『伊祖城案内図』

伊祖城『野面積みの石積みが散在する』

伊祖城からは浦添の地が一望できる『伊祖城からは浦添の地が一望できる』

英祖王朝

 琉球地方を統一した最初の王朝であり、五代90年続いた後に察渡によって滅ぼされます。

  • 初代 英祖王(1259~1299)
  • 2代 大成王(1299~1308)
  • 3代 英慈王(1308~1313)
  • 4代 玉城王(1313~1336)
  • 5代 西威王(1336~1349)

 英祖王が禅譲を受けたとされる舜天王は神話の人物ですが、保元の乱で敗れて伊豆大島に流された源為朝の子であるという伝承があります。琉球の人にとっては、王朝の祖が外国人というのは面白くない話であると思うのですが、「遺老説話」のような民間伝承だけでなく、正史である「中山世鑑」にも載っているのが不思議です。考えられる理由としては、正史が編纂された当時に琉球を武力で支配していた薩摩藩の圧力があったのでしょう。源氏を称した島津氏としては、琉球王朝の祖も同じ源氏の流れを組むということにして、その支配の正当性を主張したのでしょう。

 三山時代の北山王国は英祖王の次男の系譜を称しており、また南山王国の承察度は同じく英祖王の五男の系譜と自称していました。武力によって覇権を争った琉球の豪族たちにとっては、琉球の礎を築いた伝説の王である英祖王のネームバリューは非常に魅力的であったのでしょう。そして、その英祖王が生まれた琉球王朝発祥の地とも言えるのが伊祖グスクなのです。

伊祖グスク周辺地図

おわりに

 浦添の地は、首里城が築かれるまで中山地域の首府として栄えていました。琉球史上に残る伝説の王である英祖王、その王が身を興した浦添は後の英傑たちにとっても特別な思いがある地ではなかったのでしょうか。(この記事は続きます)

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