【グスクめぐり】(1)中城城と護佐丸

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旧ブログに書いていた沖縄グスクめぐりの記事を再編集しました。 

 2009年1月に城仲間たちと沖縄県のグスクを巡ってきました。飛行機で那覇空港に到着した後は、レンタカーを借りての行程です。空港から北部地域への移動は時間がかかるので、先にそちらを優先して、南下しながら各地のグスクを訪れようという計画です。

 

上里 隆史 (編集), 山本 正昭 (編集)
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グスクとは

 

グスク(御城)もしくはスク(城)とは、南西諸島の内、旧琉球王国領域である奄美群島(鹿児島県)から八重山諸島(沖縄県)の琉球弧とも呼ばれる地域にかけて、多数存在する古琉球(グスク)時代の遺跡。地域により形態や呼び方に違いがある。三山時代には王や按司の居城となっていた。(Wikipediaより)

 一般に「グスク=城」という認識がされていますが、必ずしもそういうわけではなく、八重山諸島ではグスクとは呼ばずに、「ヌスク」・「ノスク」や、単に「スク」と言います。この「スク」は本州の「シキ」と同じ語源という説もあり、大和をあらわす枕詞「磯城島」「シキ」と同じく、神聖な場所という意味合いの方が強いそうです。

 グスクの「グ」は、日本語でいう「御」にあたり、城に対してだけなら、そのような敬称は用いません。 実際に230程度確認されているグスクの中には、城郭としての機能を持たない祭祀場としてのグスクも存在します。また、石垣を用いた城壁がイメージとしてありますが、奄美大島などのには土造りのグスクも存在しており、城跡のイメージが強い勝連城や今帰仁城には堀切も存在します。このことから、中国の影響だけでなく、古くから日本本土との交流があったことも指摘されています。

中城城

 「琉球王国のグスク及び関連遺跡群」として世界遺産に登録されている5つのグスク(首里城・中城城・今帰仁城・勝連城・座喜味城)の中でも最大規模を誇り、六つの曲輪からなる連郭式のグスクです。築城者は琉球王朝随一の築城名手である護佐丸で、中城の按司(領主)となったときに港湾を抑えた同地に琉球最大の城郭を築きました。

 中城城の築城年は不明ですが、中北山系子孫である先中城按司を嫌った首里王府の命によって、読谷按司であった護佐丸が座喜味城から移封されて現在の姿になりました。先代の先中城按司は、真栄里(先中城)グスクを築いてこの地を去りました。

 護佐丸滅亡後には、王朝の世子領となり(世子は代々中城王子を称した)、王朝の重要拠点でありました。1853年には、アメリカから黒船艦隊を率いて来航したペリー一行が測量を行い、その築城技術の高さに感嘆しています。

036nakagusuku-7『世界遺産に登録(2000年)された中城城』

036nakagusuku-4『城内に設置されている模型』

 

 グスクの特徴である石垣による城壁は、石灰岩を用いた「相方積み(日本本土でいう亀甲積み)」やアーチ式の門など非常に高い技術で構築されています。また、他のグスクでもそうですが、城内には祭祀場である「拝所」があります。

 この拝所は地域の信仰の場所であり、多くは現代でもその役割を担っていて、部外者が軽々しく近づくのは避けた方が良いでしょう。これは世界遺産の中城城でも同じ事です。また、この中城城にはいくつか面白い箇所があります。

 

036nakagusuku-6『城壁』

036nakagusuku-5『アーチ門』

狭間(銃眼)

 グスクでは狭間(鉄砲を撃つための穴)は見られることはほとんどないのですが、この中城城では存在しているのも特徴です。琉球最高の築城名人と称された護佐丸が築いたこの城には、最新技術である鉄砲も考慮されていたわけですね。銃は中国の三眼銃を用いていたようで弾丸も出土しています。

036nakagusuku『狭間(銃眼)』

防空壕建設にによって破壊されかけた石垣

 第二次大戦中に、防空壕を掘ろうと崩しかけたところ、中からさらに石垣が出てきて途中で諦めた跡が残っています。

036nakagusuku-2『破壊された石垣』

角頭

 グスクの特徴として、石垣の端に「角頭」と呼ばれる突出した石積み遺構があります。城の修復作業をするときにも、この「角頭」が上限なので位置を図りやすい目印となります。以前に訪れた倭城で見た「稚城」と似ているねと後日話していましたが、沖縄以外では見ることがない技術は、朝鮮半島や大陸の影響を受けているのでしょう。

036nakagusuku-3036nakagusuku-8『角頭』

廃墟ホテル

 中城城を端まで見ていくと、最後に目に入ってくるのが現在は廃墟となっているホテル。かつて、中城城を舞台に繰り広げられた「史跡の保存と観光」問題の象徴でもあるホテルです。廃墟マニアには人気らしいですが、ホテル内は所有者が別ですので、安易な好奇心で中に入るのは絶対にしてはいけません。

036nakagusuku-9『廃墟ホテル遠景』

護佐丸(?~1458年)

 この中城城は、琉球王朝の戦国史において最も著名であり人気の高い護佐丸(?~1458年)による築城です。グスクを調べていると必ず出てくる人物ですので覚えておいてもいいのではないでしょうか。著名なわりには謎が多く、没年が1458年という事以外の記録があまりありません。粛正されて悪名を被されたので意図的に抹消された可能性が強いです。

 護佐丸(諱は盛春、中国名は毛国鼎(もうこくてい))は、三山時代(下記参照)に恩納村山田城主として、佐敷按司であった尚巴志に従って各地を転戦し、北山王の今帰仁城を落とすなどの功績で第一次尚氏王朝の重臣となり、娘を尚巴志の息子である尚泰久に嫁がせて、名実共に琉球王朝最大の実力者になります。しかし後に娘婿である尚泰久に謀反の疑いをかけられて、勝連城主・阿麻和利の討伐を受けて戦死します。

【三山時代とは】沖縄本島では14世紀に入ると、各地で城(グスク)を構えていた按司を束ねる強力な王が現れ、14世紀には三つの国にまとまった。南部の南山(山南)、中部の中山、北部の北山(山北)である。三つの王統が並立する時代が約100年続いた。いずれも中国の明帝国に朝貢し交流を深めたが、その中から中山の尚氏が勢力を増し、1416年に北山を、1429年に南山を滅ぼして琉球を統一した。(Wikipedia)

この謀反劇にはいくつかの説があり、

・兄・尚布里や甥・尚志魯の王位継承争いによる漁夫の利で王となった尚泰久の王権強化
・親大和派(日本)で貿易推進を図る勝連城主・阿麻和利との権力争い
・金丸(第二次王朝の祖である尚円)による有力豪族排除の陰謀

 などがあり、真実は今となってはわかりませんが、戦乱の琉球を駆け巡り数々の武功を立てた猛将である一方で、座喜味城中城城という名城を築いた名築城家であった護佐丸は、今もグスクの歴史に刻まれています。

 

036gosamaru036gosamaru-2『護佐丸の墓』

 護佐丸の墓は、護佐丸の兄である伊寿留按司の居城と伝わる台グスクの崖下にあり、1687年に護佐丸8世の子孫である毛盛定が、首里王府から土地を拝領して築きました。護佐丸〜7世子孫までの遺骨が納められています。また、この墓は文献上一番古い亀甲墓とも言われています。

中城城周辺の地図

護佐丸の兄である伊寿留按司の居城と伝わる。

世界資産。日本100名城。沖縄県ベスト10。発見!ニッポン城めぐり登録。琉球王朝の有力な豪族であった護佐丸の居城。グスクの中でも広大で最も遺構の残りが良い。「相方積み」やアーチ門など高度な技術で築かれている。

琉球王朝の有力豪族であった護佐丸の墓。

中城公園内に駐車場があります(グスクへは入場料が必要)。日本100名城スタンプは管理事務所にて押せます。

おわりに

 グスクの中でも最大規模を誇る中城城。現在では世界遺産であるこの城も、戦後すぐには本丸を破壊して観光ホテルを建設するという文化財破壊問題に直面するなど、その保存には数々の苦難がありました。現在も城域の端に廃墟となっている「中城高原ホテル」がその名残です。

 幸いなことに多くの沖縄県民の声によって貴重な城跡は守られ、現在では発掘調査や復元作業によってその姿を後世に伝えてくれていますので、私たちはその姿を見て感じることができます。保存に尽力してくださった関係者の努力に感謝ですね!

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