滋賀県長浜市谷口には関ヶ原合戦にて敗れた石田三成を匿った庄屋のご子孫が現在も住んでおられます。オトチ岩窟や法華寺三珠院をめぐった翌日に、その石田家を訪れてご子孫の方にお話を伺うことができました。
谷口村石田家
慶長五年(1600年)九月十五日、関ヶ原にて敗れた石田三成は近江国古橋村を目指して落ちていきましたが、翌十六日夜に谷口村の庄屋を訪ねたと伝わります。十七日までの1日を同家で過ごして養生した三成は、十八日に裏山の尾根伝いに古橋村へ向かいました。この尾根道は「坊さん道」とも呼ばれており、近江の戦国大名・浅井長政も古橋の法華寺へ向かうときには通ったという伝承が残ります。
この時に、三成は世話になった庄屋に対して
- 石田姓
- 鳩八の家紋
- 短刀
を授けます。短刀は戦前まで同家にあったのですが、戦時中の鉄製品徴発によって現在は行方がわかりません。
鳩八の家紋
鳩八の家紋は、「大一大吉大万」や「下がり藤」と共に三成が用いた家紋です。この紋を与えたのは、武士の守護神である八幡宮の使者である鳩を表した鳩八を、合戦には敗れたが必ず再起するという決意を庄屋に対して示したのではないでしょうか。現在でもこの鳩八の紋は石田家の家紋として大切に使われています。
『鳩八の家紋』
おわりに
当時の谷口村は災害によって麓に移転しているので、三成が泊まったと伝わる屋敷跡には祠があるだけです。しかし現在も庄屋のご子孫である石田家は健在であり、今回も現当主の石田賢氏にお話を聞かせて頂き、その貴重な品々を拝見させていただきました。あらためてお礼申し上げます。
『当時の屋敷跡には祠が建っている』
『貴重な品々』
『鳩八の家紋は今も大切に使われている。』
石田家周辺地図
関ヶ原敗戦後の9月16日夜に同家にたどり着いた石田三成は、17日をここで過ごして古橋村へ向かった。同家には石田姓と鳩八の家紋、短刀が伝わっている。
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