【対馬で城跡や史跡を訪ねてみた】(3)対馬藩お船江・清水山城・池の館

この記事は約4分で読めます。

 対馬の旅2日目は早起きしてのスタートです。行程がタイトな対馬めぐりは朝駆けは必須です!

 

 

スポンサーリンク

池の館

 少弐氏の被官であった宗氏が対馬に土着したのは、観応の擾乱にて足利直冬方であった少弐氏に代わって対馬守護となった今川了俊が没落した明徳三年(1392年)、宗澄茂が対馬守護代から守護へ昇進した頃と伝わっています。

 宗貞国の頃に中村館が築かれて現在の厳原周辺が対馬の中心地となりますが、次第に対馬全域に広がった宗氏一族の内部対立が激化していき、宗将盛池の館へと居城を移しました。池神社が城跡と伝わっていますが、今でも周辺は「今屋敷」と呼ばれています。

観応の擾乱は、南北朝時代の1350年から1352年の観応年間に頂点に達した足利政権(室町幕府)の内訌。実態は足利政権だけにとどまらず、対立する南朝と北朝、それを支持する武家や公家間ででの確執なども背景とする。(Wikipediaより)

 

宗氏略系図
『宗氏略系図』

 

池の館『池神社周辺が城跡だが遺構は残っていない』

池の館の周辺地図


より大きな地図で 対馬の城跡・史跡 を表示

 

対馬藩お船江

 池の館を見学した後は車にて久田へと移動します。金田城と並んで対馬では是非観て欲しい遺構である対馬藩お船江です。

 寛文三年(1663年)に対馬藩(宗氏 十万石格)が久田川の河口に設けた船着き場で、4つの突堤と5基の船渠があり(4基が現存)、「お船江」もしくは「お船屋」と称されていました。

対馬藩お船江『対馬藩お船江』

対馬藩お船江2『久田川の河口に建設された』

 満潮時には大船でも入港することが出来て、干潮時には干上がる仕組みになっていました。石積みの船渠の他にも正門・倉庫・休息所の建物跡が残っていて、江戸時代に造られた各藩のお船屋の中でも屈指の遺構が残っています。

対馬藩お船江3

対馬藩お船江4

対馬藩お船江5『素晴らしい遺構が良好に残っている』

対馬藩お船江の周辺地図


より大きな地図で 対馬の城跡・史跡 を表示

 

清水山城

 朝駆けを終えて朝食を取った後は厳原を見下ろす清水山に築かれた清水山城を見学します。尾根沿いに三の丸〜二ノ丸〜一ノ丸と続いていて、ハイキングコースにもなっていますが、途中には急峻な箇所もありました。

清水山城『厳原の街を見下ろす位置に築かれている』

清水山城2『尾根沿いに石垣が築かれているので上からだと遺構の配置がよくわかる』

 豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、九州と朝鮮半島南部を繋ぐルート上に「御座所」と呼ばれた拠点が築かれました。肥前名護屋城〜壱岐勝本城〜対馬清水山城〜朝鮮半島南部の倭城という連絡線上において対馬の拠点となったのがこの清水山城です。

文禄・慶長の役は1592年(日本:文禄元年、明および朝鮮:万暦20年)から1598年(日本: 慶長3年、明および朝鮮: 万暦26年)にかけて行われた戦争。日本の豊臣秀吉が主導する遠征軍と、明およびその朝貢国である李氏朝鮮の軍との間で交渉を交えながら朝鮮半島を舞台にして戦われたこの国際戦争は、16世紀における世界最大の戦争とされる。(Wikipediaより)

 

 

 山上に築かれた石垣造りの城跡は、朝鮮出兵を機に全国規格統一を図った城郭スタイルを踏襲していて発達した虎口などが観られます。他の御座所と違うのは、清水山城には御座所の機能は設けられておらず、麓である金石城を改修してその役割を果たさせていたということでしょうか。

 対馬にはこの清水山城を拠点として、前線にあたる対馬北方に結石山城撃方山城を築いています。

清水山城3

清水山城4『山上に残る石垣』

清水山城の周辺地図


より大きな地図で 対馬の城跡・史跡 を表示


より大きな地図で 対馬の城跡・史跡 を表示

 

おわりに

 厳原という小さな地域の中に、宗氏から朝鮮出兵までにわたる歴史が濃縮されています。移動距離は短いですが、清水山城は急峻な箇所もありますので、食後のウォーミングアップにお船江などを観て歩くというのが良いかも知れません。(この記事は続きます)

この記事が気に入ったら最新ニュース情報を、
いいねしてチェックしよう!
長崎県
スポンサーリンク
蓋と城をフォローする
蓋と城
タイトルとURLをコピーしました