【喜界島で城跡や史跡を訪ねてみた】(2)川嶺グスク・七城・平家森・直線道路・阿伝集落・レーダー基地跡

この記事は約5分で読めます。

 喜界島の旅、初日の続きです。この日はレンタカーを借りて、沿岸を走りながら史跡を辿っていたのですが、降り始めた雨はますます強く降ってきて・・・・ なんとか雨の強弱を見極めながら史跡を探します。

 

スポンサーリンク

川嶺グスク

 雨が激しい中、川嶺グスクの推定地を訪れました。。川嶺と書いて「ハンミ」と呼びます。鹿児島県埋蔵文化財データベースのみに紹介されているグスクですが、字との違いなど疑問が残る場所です。

 他に志戸桶集落にあったとの説もありますが、見渡す限りの水平線を見ていると、そちらの説が正解なのかなと思ってきます。ただ、この周辺からは井戸跡なども出ているそうですから、大城久(ウフグスク)と同じく、夜光貝などの加工生産拠点であった可能性はあります。軍事施設としてはありえない場所にありますし、宗教性を感じるような地でもありません。

 

kikaijima2『川嶺グスクの遺構は疑問が残る』

川嶺グスクの周辺地図

 

objectタグが対応していないブラウザです

 

七城

 七城は喜界島を代表する城跡です。伝承では壇ノ浦で敗れた平資盛が築いたというもの。仲松弥秀氏はその著書「神と村」の中で、「琉球地方では城(ジョー)は門を指す」と城郭としては否定されています。

 南西諸島には七つの門がある聖地が多いので祭祀場だろうという結論なのですが、城郭の位置としては日本を向く北や東への視界が開けており、高台から街道や集落を見下ろす位置は砦や城郭として機能していてもおかしくはないと個人的には思います。わかりにくい説明板が設置されている他、土塁や虎口を確認できます。

 

kikaijima2『土塁上にある説明板は注意していないと見落とします』

kikaijima2『虎口』

七城の周辺地図

 

objectタグが対応していないブラウザです

 

 

平家森

 平家森は七城と同じく、平家落武者伝説が残る城跡です。「森」は南西諸島では山の意味です。現地の案内板には、

 

「文治元年(1185年)壇の浦の戦いに敗れた平家一族は建仁二年(1202年)志戸桶沖名泊に上陸し志戸桶と佐手久の間にある増花田に居城を構えた(七城と称した)ときに島の東部入口(早町港)からの敵の来襲に備え、ここに要塞を築き七城とともに政守警備の重要な拠点としたところです。背後の丘には平家一族の錬式の跡もあります。」

 

 地形的にはおかしくないですし、城郭普請をしたような痕跡は見られました。地元では「フェイケムイ」と呼ばれていたそうですが、伝承にあるような由来なのか、在地豪族の手によるものなのかを証明する方法は今のところ無さそうです。この城跡も含めて、喜界島では堀切や石積みなどの遺構を確認することは出来ていません。

 

kikaijima2『主郭』

kikaijima2kikaijima2『城跡としての痕跡は確認できる』

平家森の周辺地図

 

objectタグが対応していないブラウザです

 

直線道路

 喜界島の北部を貫く直線道路で、一般に「シュガーロード」と呼ばれています。喜界島の紹介やTVコマーシャルなどでよく使われる場所です。あいにくの天気でしたが、晴れた日にはドライブやサイクリングに最高でしょうね^^

 

kikaijima2『喜界島では定番の景色』

直線道路の周辺地図

 

objectタグが対応していないブラウザです

 

阿伝集落

 島の南東部にある集落です。珊瑚の石垣は、ハブ(有毒のヘビ)が棲み着くということから奄美諸島では姿を消しつつありますが、ハブが生息しない喜界島では各所で見られます。阿伝集落はその中でも特に美しい風景が見られますのでオススメです!

 

kikaijima2kikaijima2『喜界島の原風景をよく残しています』

喜界島本土復帰の碑

 昭和二十年(1945年)、第二次大戦の敗戦によって本土から分割され、米国民政府の統治下に置かれた喜界島を含む奄美群島ですが、現地守備隊と米軍とで交わされた降伏調印式の際には奄美群島が「Northern Ryukyu(北部琉球)」と書かれていました。古代から日本の境界線にあたり、中世は琉球王朝支配下であった奄美群島を日本から分割割譲させる意図だったようです。

 現地守備隊は、薩摩の島津氏による奄美群島領有によって鹿児島県所属であることを主張します。徹底抗戦の結果、ついには米軍から譲歩を引き出します。この現地守備隊の意地によって奄美群島は守られたわけですね。

 

kikaijima2『本土復帰の碑(海岸沿いにあります)』

阿伝集落の周辺地図

 

objectタグが対応していないブラウザです

 

レーダー基地跡

 喜界島の南部に位置する七島鼻という台地は、年間約2mmという隆起スピード(世界トップクラス!)を誇る喜界島の最高所です。といっても標高300m足らずですが(^_^;)

 雨が酷くて写真がうまく撮れていませんが、ガジュマルの群生地もあり、その一角には第二次大戦中に設けられた旧日本軍の電波探知(レーダー)基地が設置があります。磨田兵曹長率いる部隊が、海軍南西諸島航空隊へ報告する任務を担っていました。現在もコンクリート造りの遺構がよく残っています。

 

kikaijima2kikaijima2『レーダー基地跡は公園整備されている』

レーダー基地跡の周辺地図

 

objectタグが対応していないブラウザです

 

おわりに

 壇ノ浦で敗れた平家が逃げてきたという伝承を持つ喜界島、2つの平家城跡は城郭遺構なのか、それとも祭祀場なのか?文献や考古学的調査では肯定も否定もすることはできません。

 初日はあいにくの雨の中での行軍でしたが、それでも半日ほどで島を一周することができました。この日の宿泊は、喜界島をリアカーで一周した大泉洋たち水曜どうでしょうチームも宿泊した喜界第一ホテルにて宿泊です。

 

kikaijima2『水曜どうでしょうチームも宿泊した喜界第一ホテル』

 

管理人
管理人

この記事は次回へ続きます。

 

【喜界島で城跡や史跡を訪ねてみた】(3)御殿の鼻・御仮屋・村田新八寓居・城久遺跡・ウフヤグチ鍾乳洞・勝連屋敷・海軍航空基地・戦闘指揮所
喜界島での史跡めぐり初日は、島の外周をめぐって平家の伝承地などを訪ねました。2日目は島の内部にある史跡を訪ねてまわります。 御殿の鼻  初日とはうってかわり晴天となった2日目は、喜界島中心街に近い御殿の鼻から見学します。当時は独立した群島権力があった喜界島は、奄美群島にまで勢力を伸ばしてきていた琉球王朝に最後まで抵抗をした島でした。  琉球国の第一尚氏王朝最後の王となった尚徳王は、なかなか野心的な人物であったようで、明の冊封を受けた後、明や朝鮮だけでなく遠くマラッカやジャワなどまで交易船を出して海外交易を推進します。財政基盤を強化したことを背景に領土拡大にも乗り出して、奄美群島を攻略、奄美島・与論島・沖永良部島・徳之島が早々と降伏する中で喜界島だけは激しく抵抗を続けました。  尚徳王は自ら兵二千、軍船五十隻で島を攻めますが、喜界島の首長以下が籠城した砦がこの御殿の鼻と言われています。当時、島の首長は平家残党の後裔だったともいわれており、伝承が本当だったとしてもここで平家は完全に滅びることになったわけです。また、この場所はノロが集まり祭祀を行う祭場でもありました。軍事拠点と祭祀の場が同じ...

 

タイトルとURLをコピーしました