経済的、政治的に首都である東京に近い千葉県は、近代化の過程において地理的条件の良さから自然と軍との結びつきが深い地域でありました。明治六年(1873年)、旧佐倉城内に旧日本軍の東京鎮台佐倉営所が置かれたのを皮切りに、各所に練兵場や訓練施設などが建設されています。
軍施設の建設により、物資を運ぶ交通網が整備され、新たに産業や商業サービスの需要が生み出されるなど、「軍郷」として発展していくことになったのです。 その後、日清・日露戦争や第一次世界大戦と続く中で軍施設は拡大されていき、第二次世界大戦末期には特攻隊基地が建設されるなど、多くの悲劇を見送ることになったのでした。
今回は、この軍郷の中でも第二次大戦末期に整備がされた、香取海軍航空基地の遺跡を辿ってきました。
香取海軍航空基地遺跡
香取海軍航空基地とは
「香取」という名称の基地ではありますが、正確には九十九里浜沿いの旭市と匝瑳市にわたって存在していました。武神を祭る香取神宮にちなんで命名されており、香取飛行場もしくは干潟飛行場とも呼ばれていました。
満州事変・日中戦争と戦争が拡大していく中で、対アメリカ戦や植民地への航空輸送を想定して、昭和十三年(1938年)から建設が開始されました。「海軍施設工事関係綴」に記載されている動員人数は、のべ163万人、使われたセメントは9,200トンにも及ぶ大工事であり、有蓋掩体(コンクリート製の格納庫)が25基、無蓋掩体(土盛りの格納庫)が101基建設されたと記録には残っています。
昭和十八年(1943年)に完成した香取航空基地でしたが、その頃には戦況は悪化しており、二十年にはアメリカのT4U戦闘機16機が香取航空基地より出撃した零戦13機を撃墜した後に基地を空襲、甚大な被害をもたらしています。その後、硫黄島への特攻作戦が立てられ、香取基地に「神風特別攻撃隊・第二御楯隊」が編成されました。「しんぷう」が正式名称ですが、「かみかぜ」特攻隊の名で知られている部隊です。天山12甲型の戦闘機に、91式改3号魚雷を積んで飛び立った同部隊は村川隊長以下60名32機の尊い命を硫黄島沖で落とすことになったのです。
『神風特攻隊・第二御楯隊(市民が語る平和へのねがいより)』
その後、特攻隊は九州へと移転していきましたが、引き続き本土決戦に備えて、トーチカや掩体壕の建設は続けられていました。敗戦後は、これらの施設はほとんどが移築再利用されていますが、現在も水田などの中にポツンと佇んでいるような遺跡も見ることが出来ます。
掩体壕その1
鎌数神宮に隣接するI氏所有の畑に農業倉庫として利用されている掩体壕があります。25基建設された有蓋掩体の1つで、現在は3基が残るのみとなっています。形はよく見かけるかまぼこ形ではありますが、大戦末期に作られたということもあり、コンクリートの中に藁葺きも見られるなど材料費を削っていることがわかります。教育委員会の説明板もありますが、注意!私有地ですので見学には必ず許可を貰ってください(I氏は快く許可してくださいました)。
『双発機タイプの戦闘機を格納していた』
『所々に藁葺きを使用している』
掩体壕その1の周辺地図
鎌数伊勢神宮の西隣には、第二次大戦中に旧日本海軍の香取航空基地の飛行機を格納した掩体壕が残っている。双発機を格納するタイプ。
滑走路跡
香取航空基地の滑走路は、長さ1,400m・幅100mと長さ1,500m・幅100mのものがX型にクロスしていて、ここから硫黄島や九州経由で沖縄などへ特攻機や輸送機が飛び立っていました。
『昭和十八年当時の概念図(市民が語る平和へのねがいより)』
現在は(株)日清HDのテストコースとして、北西から南東へと延びる滑走路がそのまま残っています。残念ながら、テストコースという性格上、厳重な目隠しがしてあり、ダメ元で見学を申し込んでみましたが、やはり飛び込みの旅行者に見せてくれるほど甘くはありませんでした。しかし、地形図等で見てみると当時の様子がよくわかります。
『外から中の様子を見ることは不可能』
滑走路跡の周辺地図
旧日本海軍の航空基地。十字の滑走路であり、終戦前には神風特攻隊が硫黄島に向けて出撃した。現在は日清紡HDのテストコースになっている。
掩体壕その2
25基中、3基が残っている有蓋掩体タイプの掩体壕の残り2基は匝瑳市の水田の中に並んであります。当時は、戦闘機を格納庫に入れるよりも空襲用の掩体壕へと避難させることが多かったと伝っていて、空襲に対する掩体壕の信頼を表すものではあるのですが、実際には機銃掃射によって中の零戦が燃えたりすることも多かったようです。
『水田の中に2基残っている』
『戦後は農機具倉庫として使われておりかなり改変されている』
『奥の掩体壕へは近づくことは出来ない』
掩体壕その2の周辺地図
香取航空基地には25基の掩体壕があったが、現在はここの2基と鎌数伊勢神宮西側の1基を残すのみである。戦後は小屋等として使われてきた。有蓋である。
掩体壕その3
基地の中心から少し西へ行った集落内にも掩体壕があります。資料には記載されておらず、また戦闘機を格納するような大きさでも無いことから、高角砲台の物資格納庫ではないかと言われています。他の掩体壕と違い、教育委員会による整備保護もされていないようで、不用意に中に入ると危険です。
『物資格納庫としての掩体壕』
『所々にコンクリートがむき出しとなっていて危険』
掩体壕その3の周辺地図
香取航空基地もしくは高角砲台の物資格納庫と考えられる。
おわりに
負の遺構から学ぶ「ダークツーリズム」という言葉があるらしいですが、賛否はあれど戦争を二度と起こさないためには過去に学ぶということもまた大切なことではないでしょうか。戦後教育では徹底的に忌避されてきた戦争遺跡。保護することも語ることすらタブーのようなところがある風潮の中で、全国各地に残っている遺構の多くが消滅の危機にさらされています。
今回、辿った香取海軍航空基地跡は多くの遺構が地元の皆さんによって語り継がれており、整備や平和学習に利用を決断した旭市教育委員会は立派だと思います。最近ブームになっている戦国武将や戦国時代の合戦などはアイドルのように崇拝したり、好き勝手に語っても構わないが、近代戦争の遺構や記憶は絶対にNGとかいうのもおかしな話です。
「戦争は悪」、そのことを学ぶためにも生きた教材として行政が積極的に保護活用して欲しいですね。