韓国へ倭城を見に行く旅その6は、4日目の記事になります。
西生浦倭城など、倭城の中でも屈指の遺構を見ることが出来た3日目。素晴らしい城跡を堪能した私たち一行は、再び高速バスにて釜山市街に戻って韓成モーテルに宿泊。1泊800円程度(2009年レート)で、LAN環境が整っているこのモーテルは2回訪れたの倭城遠征で大変重宝した宿です。
この日は日本水軍の拠点であった「安骨浦倭城(アンゴルポ・ウェソン)」に向かうために鎮海市(チナ)に向かいます。ところがここに行くのが難易度が高く、まずは地下鉄1号線で「下端(ハダン)」に行き、そこからバスで「龍院(ヨンウォン)」に移動して、さらに海沿いに30分歩きます。地下鉄2号線の「沙上(ササン)」からなら始発で行けるそうですが、どちらにせよ韓国語は必須ですね。倭城のプロであるK氏が同行してくれていたからこそ無事に訪城出来ましたが、一人で行く自信はありません(^_^;
『龍院行きのバスチケット』
『安骨浦倭城がある集落』
安骨浦鎮城
朝鮮水軍の拠点でもあった「安骨浦鎮城」を接収した日本軍は、新たに拠点となる「安骨浦倭城」を築きます。在番は九鬼嘉隆・脇坂安治・加藤嘉明の水軍を率いる大名が交代で守っていました。安骨浦鎮城は住宅地になっていて遺構は無いのですが、港の遺構である堀江や基礎は残っているそうです。(残念ながら見つけられませんでした)
『安骨浦鎮城跡は住宅に・・・』
安骨浦倭城
安骨浦鎮城跡である住宅地を抜けると安骨浦倭城が見えてきます。海に面した丘陵の築かれた石垣の姿はまさに倭城版竹田城といっても良いシルエット!倭城の中で最も美しい遠景を見せてくれる城跡です。
『安骨浦倭城遠景』
安骨浦倭城は、3つの曲輪が独立している「一城別郭」タイプの城であり、それぞれが虎口や石垣など最新の織豊系技術を用いています。各曲輪は細い城道で繋がっていて要所には登り土塁などの防御も施されています。
『安骨浦倭城虎口』
『遺構の残存状況は良好』
『曲輪はそれぞれが独立している」
しかし、あまりに各曲輪の独立性が高く、それぞれの曲輪には天守台まで築かれています。3つの天守台が造られた城というのもちょっと珍しく、「3人は仲が悪かったのか?」や「家庭内別居か(笑)」などと各人が好き勝手な論評をしていました(^_^;
案外、仲が悪かったというのは当を得ていて、築城に際しても水軍を預かる大名同士の競争があったのかも知れません。海賊大名として名を馳せた九鬼嘉隆としては、ポッと出の豊臣水軍大名など片腹痛いでしょうし、早い時期から秀吉から目をかけられていた脇坂安治、子飼いの加藤嘉明にもそれぞれに思惑があったことでしょう。
現に朝鮮出兵後に脇坂安治は、補給路を朝鮮水軍によって断たれた責任を取らされて失脚しています。後年の関ヶ原の合戦において、早くから徳川家康に意を通じていた脇坂安治ですが、秀吉死後に起こる政争の火種はすでにくすぶっていたのでしょうね。
『水軍3将が独自に築城している』
『城域には3つの天守台がある』
『天守台』
この安骨浦倭城は、素晴らしい遺構が見られる城跡ですが、城跡がある鎮海市は近年急速に開発が進められていて、新たな港湾整備のために埋め立て工事が日々行われています。その範囲は城跡のすぐ下にまで迫っており、近い将来消滅する可能性もあります。近年、反日の声が強い韓国では、声を大にして保存を訴えると言うことは難しいようで非常に心配なことです。
『安骨浦倭城周辺は急速に開発がすすむ』
この安骨浦倭城とは、地下鉄の工事が計画されている港湾の対岸を挟んで、倭城ツートップと称される「熊川倭城(ウンチョン・ウェソン」もありますが、今回の旅では残念ながらお預けです。再び、路線バスに揺られて釜山市へと戻ります。
この記事は続きます。
安骨浦倭城の周辺地図
昌原市鎮海区安骨洞山32-4
城将:九鬼嘉隆、加藤嘉明、脇坂安治