「倭城に行きたい!」
朝鮮半島南部を中心に、現在でも良好に遺構が残っている倭城。豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に築いた城の数々は、城好きならば1度は見ておきたいところ。私たち城仲間の間でもしばしば話題に上がっていました。しかし、この倭城への訪城というのは実に敷居が高く、
- 海外なので日程や行程、旅費の面で大変
- 倭城の多くは都市部から離れているため、韓国語は必須(英語でもダメな地域も多い)
- 反日感情
しかし、それなりに城めぐりの経験も積み、金銭的にも多少の余裕が出来た今こそ「倭城に行きたい!」という思いを叶えるべく、城仲間4人で倭城研究家のK氏にお願いをしていたところ、2009年春に実現することなり、関西国際空港より韓国へと旅立ちました。
倭城の基礎知識
- 文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵に際して、肥前名護屋を中心に前線基地の構築。全国の大名へ城郭の企画化(総石垣・発達した虎口など)が求められる。
- 朝鮮半島各地に砦や陣城が築かれ、また最前線から釜山までの繋ぎの城や秀吉の唐入りの「御座所」も構築される。占領した朝鮮邑城(都市を羅城で囲んだ朝鮮式城郭)を改修した城が多かった。
- 明軍の火器により、邑城を日本式に改修した城は次々と破られ、朝鮮水軍を率いる李舜臣によって補給路を断たれた日本軍は、対抗措置として港湾を取り込み巨大で堅固な城を築いた。
- 「補給路の確保」・「行政拠点」・「橋頭堡」・「朝鮮四道割譲交渉への示威」などの役割を持った倭城は「御仕置之城々」と呼ばれ、朝鮮半島南東部に「文禄18城」・「慶長8城」が築城された。現在残る倭城は主にこれら26城であり、最東端が加藤清正が築いた蔚山倭城で、最西端が小西行長が築いた順天倭城である。
- この時の技術ノウハウは、フィードバックされて、伊予松山城や洲本城などが築かれた。
- 日本に残っている織豊系城郭の変遷が、その後の近世城郭への移行や、現代の開発によって不明な部分もある中で、その特徴を維持したままで残っている城が多い。
- 倭城は朝鮮語では「ウェ(=倭)ソン(=城)」を発音し、現在確認されている場所の多くが釜山広域市周辺に集中しており、順天倭城以外はすべて慶尚南道にある。
倭城の特徴
- 山上と居館部及び港湾を長大な城壁で連結し(登り石垣)、大勢の将兵が収容できるように多数の曲輪が配置されている。
- 織豊系城郭では採用されていない空堀や竪堀などが多用されている。石垣の外側に竪堀を築いたり、近世城郭には見られない不規則に配置された鉄砲狭間や馬出など、各地で発達した日本の築城術を盛り込んでいる。
- 天守が最前線にあり、敵に対するトーチカの役割を果たしている。
- 「雉城」と呼ばれる、直線上の塁線外側に張り出して築かれ、横矢掛けの役割を果たした防御機構が多く見られるが、その後の日本へは導入されなかった。
- 瓦の多くは、「滴水瓦」と呼ばれる朝鮮式の瓦を用いており、朝鮮人職人を連れて帰った大名の城に今でも見ることが出来る。代表的なのが姫路城や熊本城であるが、日本では定着しなかった。
子城台倭城
先発していたK氏と3人の城仲間と金海空港で合流してまずは宿を確保です。釜山の町には日本でも有名なホテルがいくつもあるのですが、それらをスルーしてモーテルにチェックインします。オンドル(流水式床下暖房)が備わってLAN設備もある大部屋で、ひとり3万ウォン(2009年5月のレートで800円 安い!)でした。このあたりは、韓国を知り尽くしたK氏のおかげです。
『倭城の旅は格安のモーテルに宿泊』
荷物を置いてさっそく倭城見学へ出発。1号線~3号線からなる釜山の地下鉄は1区間100ウォン(2009年のレートで90円)、それ以上乗っても1300ウォン(同じく100円)と安い! 佐川洞駅から線路を越えて東へ進み、釜山鎮市場の東にある丘陵にあるのが「子城台倭城(チャソンデ・ウェソ、釜山子城)」。倭城初心者にとっては、もっともアクセスが容易な倭城です。
『移動は地下鉄で』
文禄元年(1592年)に最初に上陸した小西行長・宗義智は、佐川洞駅付近が推定地とされる釜山鎮城を守る黒衣の将軍・鄭撥を攻めて落城し、朝鮮半島への足がかりとします。日本軍撤兵後、この城は新しい釜山鎮城として用いられており鎮南台や西門が復元されています。
『子城台倭城入り口(北門)』
現在、子城台倭城は公園整備されていて、どちらかといえば釜山鎮城を対象にした復元がされていますが、遺構は良好に残っており随所に野面積みの石垣や算木積みを見ることができます。刻印らしきものがありますが、他にハングルも見られるので単なる落書きかもしれません(^_^;
『子城台倭城に残る野面積み』
『子城台倭城算木積み』
『子城台倭城虎口』
『子城台倭城に残る刻印』
釜山湾に面したこの城は、現在では周辺は埋められており景観は当時とは変わっています。城域も、遊歩道整備や1974年に建てられた鎮南台など市民憩いの場となっています。400M離れた釜山倭城(母城)と一連の城として機能していたのかは定かではありませんが、母城・子城共に天守台と推定される巨大な櫓台があり、それぞれが主とした城郭として機能していたのではないでしょうか。
『日本軍撤兵後に築かれた鎮南台(復元)』
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子城台倭城の周辺地図
東区佐川洞山9-25(甑山公園)
城将:毛利輝元