喜界島での史跡めぐり初日は、島の外周をめぐって平家の伝承地などを訪ねました。2日目は島の内部にある史跡を訪ねてまわります。
御殿の鼻
初日とはうってかわり晴天となった2日目は、喜界島中心街に近い御殿の鼻から見学します。当時は独立した群島権力があった喜界島は、奄美群島にまで勢力を伸ばしてきていた琉球王朝に最後まで抵抗をした島でした。
琉球国の第一尚氏王朝最後の王となった尚徳王は、なかなか野心的な人物であったようで、明の冊封を受けた後、明や朝鮮だけでなく遠くマラッカやジャワなどまで交易船を出して海外交易を推進します。財政基盤を強化したことを背景に領土拡大にも乗り出して、奄美群島を攻略、奄美島・与論島・沖永良部島・徳之島が早々と降伏する中で喜界島だけは激しく抵抗を続けました。
尚徳王は自ら兵二千、軍船五十隻で島を攻めますが、喜界島の首長以下が籠城した砦がこの御殿の鼻と言われています。当時、島の首長は平家残党の後裔だったともいわれており、伝承が本当だったとしてもここで平家は完全に滅びることになったわけです。また、この場所はノロが集まり祭祀を行う祭場でもありました。軍事拠点と祭祀の場が同じというのは琉球の影響が強いですね。このあたりは平家伝承を否定する材料になっています。
『公園整備されているが遺構は残っていない』
御殿の鼻の周辺地図
喜界島御仮屋
元和の一国一城令(1615年)によって鹿児島城以外の城を破却した薩摩藩(島津氏)でしたが、旧城下を「麓」として再編して一門や地頭を置きました。
薩摩藩独特の制度である「外城」ですが、この麓の行政所として「御仮屋」もしくは「地頭仮屋」と呼ばれた代官所が設置されています。領主は鹿児島常在なので、政務は地頭麓三役(郷士年寄・組頭・横目)が行っていました。喜界島にも元禄九年(1696年)に御仮屋が設置されています。
『島の中心部にあったが遺構は残っておらず、説明板があるのみ』
喜界島御仮屋の周辺地図
村田新八寓居
幕末の志士で西郷隆盛の盟友であった村田新八が、島津久光の怒りに触れて流されたのが喜界島でした。文久二年(1862年)から元治元年(1864年)までの1年半を島で過ごしていますが、何度か転居をした後に碑が建つ喜島家(現在もご子孫の方が在住)に移りました。
島では役人以下、島民にも慕われて比較的自由な生活をしていたようで、
「当年も異郷之春を相迎、年月の運りゆくを楽ミ、兎に角ニ面白、子供抔と破魔投等、年首悪鬼払ニ仕、至極元気ニ罷暮申候間、御放志可被成下候」
と鹿児島伝統の正月遊びである破魔投げを楽しんでいる様子が手紙に残っています。
赦免された後は、西郷と共に幕末の動乱を切り抜けて、最後は城山で西郷と共に自刃した新八。喜界島での生活は案外、もっともゆったりと過ごした日々だったのかもしれません。
『寓居跡には石碑が建つ』
村田新八寓居宅の周辺地図
城久遺跡
城久(グスク)遺跡は、喜界島の中央部に位置していて、島では最大規模の史跡です。土器や白磁器などの出土品の他に、大型掘立柱建造物などが発掘されていて現在も調査が続いています。
奄美群島に属しながらも奄美渡島独自の兼久式土器が見つからずに土師器や須恵器が数多く見つかることから、九州や畿内とのつながりが強かったと考えられています。平安時代中期には、雨見島(奄美大島)の追討を命じられた文献が残っていることから、太宰府の支配下にあったと考えられていて、おそらくは太宰府の南方交易の拠点であったのでしょう。
鎌倉時代になると、日本の領域外と認識されていたようなので、太宰府の機能低下と共に独立性を高め、やがては琉球王朝の支配下になっています。結果次第では中世の歴史を変えると言われている城久遺跡、今後の調査に期待したいですね。
『調査は現在も続いていますが、見学用の整備はされていません』
八幡神社
元禄十年(1697年)、喜界島に代官所が設置された翌年に建立された神社(喜界島代官記)が城久遺跡にあります。喜界島の景色が一望できるこの神社は、名前の通り八幡神を祭る神社で小野津の集落にもあります。
八幡神といえば源氏の守護神として崇められている神で、源為朝の琉球王朝始祖伝説に関連しているのですが、代官所の設置翌年に建立ということを考えると、琉球統治の影響力を排除するために島津氏が為朝伝説を利用したのではないでしょうか。
『眺望が素晴らしい城久地区の八幡神社』
城久遺跡の周辺地図
ウフヤグチ鍾乳洞
ウフヤグチ鍾乳洞は「太谷口鍾乳洞」とも呼ばれていて、鍾乳石や石筍が素晴らしい鍾乳洞だったらしいのですが、戦時中に防空基地とされて破壊されてしまいました。ドラマ「遅すぎた帰還・実録小野田少尉」のロケがここで行われています。
『足下は悪いので訪れるときは注意してください』
ウフヤグチ鍾乳洞の周辺地図
勝連屋敷
三山時代の琉球において有力であった勝連按司(地頭)が喜界島に進出したときの館で、屋敷内に「力石」と称する二個の石も残っています。
中国との交易において、日本からの主力交易品であった硫黄が採れる喜界島。琉球の按司(地方豪族)であった勝連按司は、ここを拠点に硫黄の中継貿易を行い莫大な財を築いていました。勝連按司といえば、「護佐丸・阿麻和利の乱」にて琉球王家から粛清された阿麻和利が有名ですが、彼の反乱には、この喜界島との硫黄貿易における利権を狙った王家の陰謀説もあるぐらいです。
力石・・・琉球三山時代に 勝連の殿様が城を築いた際に島民に夫役が課され、全島の若者にこの石を持ち上げさせて 夫役の人夫として使えるか体力を試したという由来がある。(喜界町史)
『石垣と虎口』
『力石も残っている』
勝連屋敷の周辺地図
海軍航空基地 戦闘指揮所
喜界島空港の前身は旧日本海軍の南方中継基地でした(昭和六年建設)。昭和十九年(1944年)には、本土防衛の重要性もあり大幅な整備拡張が行われています。
菊水作戦時には陸軍航空隊と基地の共同運用を行っており、両軍の航空隊が沖縄を攻撃している米軍に特攻攻撃を行っているという悲劇もありました。空港の片隅には慰霊碑が建っています。
菊水作戦(きくすいさくせん)は、太平洋戦争末期、連合国軍の沖縄諸島方面への進攻(沖縄戦)を阻止する目的で実施された日本軍の特攻作戦である。作戦名の「菊水」は楠木正成の旗印に由来する。(Wikipediaより)
菊水作戦を行う中継基地として喜界島基地は重要視されていて、その遺跡としては「戦闘指揮所」が残っています。特攻隊員も出撃前はこの場所で作戦指示を受けていたと伝えられています。
当時の最高機密であったためにいつ建設されたかという事は記録に残っていませんが、国内で唯一現存する戦闘指揮所の建物です。
『海軍戦闘指揮所』
『海軍航空基地戦没者慰霊碑』
海軍航空基地・戦闘指揮所の周辺地図
おわりに
比較的短時間で気軽に巡れる喜界島ですが、遺構を楽しむというよりは歴史と自然を感じて欲しい島です。注意するのは天候。奄美地方は台風などの悪天候で飛行機が遅れることはよくあることですが、晴天のこの日も風が強くまさかの飛行機欠航・・・・。小型機は少しの強風でも欠航するリスクがあるのですが、俊寛が島で一生を終えた足跡を辿りに来てまさか自分が島に閉じ込められるとは思いもよりませんでした(^_^;)
『波が高く予兆はあった・・・』
買い物する場所や飲食店には困らなかったのですが、同じように予定変更に困った観光客やビジネスマンが空港に押し寄せて、飛行機のチケットはすぐに満席になっていました。私はこの予定外の宿泊にはウィークリーハウスを利用しました。離島の旅は、予定外のリスクに備えて余裕ある日程でいかないといけませんね。
喜界島の旅(終)