韓国へ倭城を見に行く旅その12は、二度目の倭城遠征2日目の記事になります。
2日目の朝は、西生浦倭城と並び倭城ツートップと言っても過言ではない(個人の感想です)「熊川倭城(ウンチョン・ウェソン)」へ向かいます。登り石垣の原点というべきこの城は、洲本城や伊予松山城など、現在でも登り石垣が残る城郭と比べてみても規模が桁外れに違います。
熊川倭城への行き方は、安骨浦倭城と同じく龍院(ヨンオン)のバス停を基点にします。最寄りの停留所は城内洞(ソンネドン)ですが、登城口はワソン村(倭城の読み方であるウェソンが訛った地名)であり、少し距離があるので龍院からタクシーで行くのが良いでしょう。また釜山市内の下端駅(ハダン)からのバスもあります。
『熊川倭城へ』
熊川倭城とは
熊浦と呼ばれた鎮海市南門洞(ナムムンドン)の湾に面した南山(ナムサン 標高184m)の山頂に築かれており、麓の居館部と山頂の城郭が登り石垣で連結されています。文禄二年(1592年)の築城には主として上杉景勝が担当し、西部方面総司令官の小西行長の在番城として、同じく東部方面総司令官であった加藤清正の西生浦倭城と並んで最大規模の城郭です。
この城には、文禄三年(1593年)にグレゴリオ・デ・セスデペス神父が伝導を行っており、現在の同城主郭部周辺の土地所有者は韓国カトリック教会です。韓国におけるカトリック発祥の地であるというところに、キリスタン大名・小西行長の影響が見られて面白いです。
『虎口』
『石塁で区切られた曲輪』
『天守台石垣』
熊川倭城の見所
この城での一番の見所といえば、洲本城や伊予松山城などに見られる登り石垣の原点でしょう。江戸期の城郭には採用されなかった技術であるために、現在の日本ではほとんど見ることが出来なくなっていますが、異国の地である韓国にて当時の姿を見ることができます。
伊予松山城など日本に残る登り石垣の役割としては、山麓の居館部と山頂の城郭をつないで防御性を高めるものですが、倭城の場合それ以外に最も重要な役割として港との一体化がありました。朝鮮水軍によって、補給路を分断されるリスクを常に抱えていた日本軍にとっては、港の防衛というのは最重要課題であったわけです。
登り石垣は山頂の天守台や櫓と連結しており、さらには竪堀で防御を強化しているなど、日本の城郭ではありえない組み合わせが見られます。朝鮮半島の城郭技術である「稚城」も見られ、日本で発達した技術に半島の技術を融合させたプロトタイプ近世城郭というべき姿ではないでしょうか。
この朝鮮出兵を通じて得られた技術をフィードバックして、多くの近世城郭が築城されたことを思うと、まさに「倭城見ずして近世城郭は語れず」といった感があります。城郭ファンには是非とも訪れて欲しい城であります。
『登り石垣』
『稚城』
見学の注意点
城の全域を見るには強烈な茨を藪漕ぎしないといけません。最大の見所である登り石垣を茨を避けて見ないというの非常にもったないですが、危険も伴いますので十分な装備と覚悟は必要です。
『強烈な茨を藪漕ぎ・・・』
『藪の先にも石垣』
『港と連結する登り石垣も藪の中』
とはいえ、西生浦倭城と並んで見応え十分の登り石垣を見逃すのは非常にもったいないところでもあるので倭城見学を考えている人は是非十分な下調べをして訪城してみてください。
この記事は続きます。
熊川倭城の周辺地図
城将:上杉景勝、小西行長