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【城】黒田官兵衛ゆかりの御着城の痕跡は今でも周辺の随所でたどることができる

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 大河ドラマ「軍師官兵衛」で、黒田官兵衛を頼りにしながらもその能力に嫉妬をして、へそ曲がりな行動を取るだだっ子的な主君として描かれている小寺政職。実際の姿は播磨国を別所氏と二分する西播磨の雄としてかなりの勢力をもっていました。

 新興の国人である黒田氏が勢力を伸ばせたのも小寺氏のバックアップがあったからこそです。その小寺氏の居城である御着城は各サイトで遺構はほとんど無いと紹介されていますが、市街地を歩いてみると意外と随所にその痕跡を見ることが出来ました。

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小寺氏と御着城

 西播磨の戦国大名であった小寺氏は、元は播磨守護・赤松氏から分かれた家です。守護家としての赤松氏は、その一門衆を足利尊氏に従って播磨守護職を獲得した赤松円心の子孫に限ったために、円心以前に分家した小寺氏はあくまで家臣の位置づけであったのですが、衰退していく主家を支えた重臣として着実に勢力を伸ばしました。

 元々、播磨の守護所(守護職の政庁)は坂本城であり、御着城は段銭(税金)の徴収所として奉行である小寺氏及び薬師寺氏が「御着両奉行」として任にあたっていたことが史料に見えますが(姫路市史14巻)、応仁の乱で赤松氏が衰退していくにつれて小寺氏が自立の拠点として拡張しています。大河ドラマでは龍野城の赤松政秀が宿敵のように描かれていますが、実際には播磨守護職の赤松宗家である赤松義祐と分家(龍野赤松家)でありながら、独自の勢力拡大を図る政秀との争いに巻き込まれた立場であり、守護側の有力武将でありました。

 龍野赤松氏や浦上氏など、西に対立する勢力があった小寺氏は終始一貫して中国地方の覇者である毛利氏と誼を通じていて、大河ドラマでは官兵衛が織田家の先進性を見て織田信長へ味方するように説いた形になっていますが、実際には官兵衛は毛利方へ味方するように主張していて、織田方へ味方するように進言した家臣・山脇六右衛門を讒言して滅ぼしています。ドラマとはまったくの反対だったわけですね!

 小寺氏が信長を裏切って毛利氏に味方したのも、当時の情勢が荒木村重の謀反により摂津や播磨以西の勢力図が毛利側に傾いていたことを考えれば自然なことであり、敗れて滅亡したからといって当時の小寺政職の判断がまずかったわけではないのです。

 

火山秀吉陣所

 御着の地を見下ろす火山には、織田信長が御着城を攻めるために派遣した羽柴秀吉が陣を構えています。陣城群を築いて対峙した三木城ほどではないですが、御着城もまた性急に力攻めできるような城ではなかったのです。

hiyama-3『火山秀吉陣所』

hiyama-2『火山から御着城を見下ろす』

hiyama『秀吉は火山の麓に帯陣』

火山秀吉陣所の周辺地図

 

 公園麓に駐車スペースがあります。

御着城周辺を歩く

 宝暦五年(1755)に描かれた「播州飾東郡布東御野庄御着茶臼山城地絵図」は、御着城と主要街道である山陽道(西国街道)との関係がよくわかります。内堀と外堀の二重で囲まれた城であり、街道や城下町を惣堀で包括していたことも絵図。御着城は軍事的な要衝というだけではなく、経済を重視した惣構えの城であったのです。

主郭・二ノ丸

主郭二ノ丸

 御着城の主郭は国道2号線により分断されていますが、小寺明神から姫路市東支所あたりまであり、御着城公園グランド周辺が推定地とされる二ノ丸とは堀で区切られています(公園と東支所の間の道路が堀跡)。公園内には御着城の西側の防御となっていた天然の堀である天川に江戸時代に架けられた石橋が移築されており、黒田官兵衛の祖父である重隆と母(明石氏)の廟所もあります。

 この廟所は官兵衛が中津に封じられて播磨を去った後は放置されていたようで、江戸時代に福岡藩士が調査に訪れた時に発見されてから現在のように整備されました。父の職隆は妻鹿城近くに葬られていますが、こちらも江戸時代に調査されるまでは放置だったようです(^_^;)

gotyaku-6

gotyaku『主郭跡は御着城公園及び姫路市支所から小寺明神あたり』

gotyaku-3『二ノ丸跡は現在はグランド』

gotyaku-7『主郭と二ノ丸を区切る堀跡は現在は公園内の道路』

gotyaku10『二ノ丸東側の堀跡』

gotyaku-2『天川に架かっていた石橋を公園内に移築している』

gotyaku1-2『黒田家廟所』

gotyaku-5『西側の惣堀の役割を果たした天川』

 

 御着城公園に駐車スペースがあります。

内堀・惣堀

南の堀

 御着城は内堀と外堀の二重で防御されており、西に流れる天川を利用した惣堀で城下町を取り囲んでいました。堀跡は市街地開発で埋められていますが、公園東側の段差や堀跡に沿って埋められた道路跡を辿ることでその痕跡を確認できます。

gotyaku2-3『南側の内堀跡』

gotyaku2-2『惣構えの跡』

市や街道を取り込んでいた御着城

西市

 御着城は惣堀で城下町を囲んでおり、当時の主要街道であった山陽道(西国街道)を抑えていました。城内には西市と佐土市をいう規模の大きな市が開かれており、経済を重視した小寺氏の姿を見ることが出来ます。

gotyaku2『西市周辺 曲げた街道跡がわかる』

gotyaku2-4『街道を取り込み流通の拠点でもあった』

gotyaku2-5『江戸期には宿場として栄えた御着地域』

御着城周辺の城

 御着城の近辺にはいくつかの城郭が存在しています。余談ですが、播磨地方では小規模の城郭や居館を「構居」と称しています。他の地方ではあまり見られない呼び方ですが何故なのでしょう?その理由が知りたいですね。

国分寺構居

 国分寺構居は御着城の北西に位置しており、小寺氏の一族である原田氏が居城としていました。現在もその堀跡に沿って田畑があり構居の姿を想像できます。

kokubunjikoukyo『国分寺構居東側の堀跡』

kokubunjikoukyo-2『国分寺構居北西の堀跡』

別所構居

 小寺氏の家臣である大塩氏の居城で、羽柴秀吉によって御着城が落城したときに共に大塩氏は滅んでいます。国道2号線別所交差点付近が推定地とされていますが遺構は特に残っていません。

bessyokoukyo『別所構居は国道2号~実際院(廃寺)周辺が推定地』

佐土構居

 清水氏の居城と伝わりますが、福乗寺周辺が推定地である同地は戦国期には御着城の惣構えに取り込まれていたと考えられます。

sadokoukyo『佐土構居は福乗寺周辺が推定地』

おわりに

 歴史を知っている現代の私たちは、織田信長へ背いて毛利へ寝返った小寺政職の決断を結果から低い評価をしていますが、街道や市を取り込んだ惣構えの御着城を拠点とした小寺氏は、西播磨の雄として織田家と毛利家の間にあって交通の要衝と経済力を保持する戦略のキーパーソンと言える存在でありました。大河ドラマで注目されている今こそ再評価をして欲しいですね。

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城好きのマンホーラー。日本各地(時には海外へも)の城跡やマンホールを訪ねて旅をしています。100名城スタンプは2冊目に挑戦中。最近は離島の城跡や、琉球王朝関連史跡にはまっています。

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