【日本各地のマンホール!】
今回は、京都市右京区の中で旧京北町地区のマンホールを紹介いたします。
デザインの由来
平成十七年(2005年)に京都市右京区に編入された京北町は、丹波国桑田郡北部の中心地として、皇室領や公家・寺社領などが多くあり、戦国期にはそれらを押領した宇津氏が戦国大名として勢威を持っていました。
戦乱で荒廃した京の都に近く、物資の補給地でもあったこの地を宇津氏に奪われていたことが、朝廷の窮乏に繋がったともいえるほどの重要拠点であり、丹波平定を行った明智光秀も城を築いています。
江戸時代は天領や丹波篠山藩領、丹波亀山藩領などが散在しており、明治になって北と南に分割された同郡のうち、北桑田郡の周山村や弓削村が昭和三十年(1955年)に合併して京北町となりました。
四方を山で囲まれるこの地は、銘木「北山杉」の産地でもあり、マンホールのデザインも町花である「シャクナゲ」を中心として、まわりに北山杉を配置したデザインとなっています。
『シャクナゲと北山杉をデザインしているマンホール』
地域の城跡
上中城
市指定史跡である上中城(田中城、田中ノ小城とも)の詳細は不明ですが、平安時代にあたる天仁年間の築城と考えられています。築城者は、蔵人大夫正平の末裔で北面の武士・九郎国眞と伝わっています。姓は略されているところから藤原氏、苗字は上中を名乗っていたのでしょうか。
「蔵人大夫」という官途名は、六位の蔵人が五位に昇進したのを期に退官した時のもので、現役の「五位蔵人」とは区別されていました。事情は異なるでしょうが、出世の頭打ちですね。本流からは外れている中級貴族といったところでしょうか。
時代が降って、その子孫で上中城を築いたとされる九郎国眞は、北面の武士(院の御所を警備する役職)で、都にほど近いこの地に居を構えているところから、軍事貴族としてそれなりの勢威を保っていたと考えられます。
九郎国眞以後の消息については詳しく伝わっていませんが、上中城はこの周辺を支配した宇津氏によって利用されていたと思われます。土岐氏の末裔を名乗る宇津氏ですが、その系譜は怪しいもので、あるいは土着した九郎国眞の末裔だったのかもしれません。
遺構としては、北辺に土塁の痕跡が少し残るだけですが、単郭の曲輪跡は広場となっており、かつては堀であったと思われるラインがそのまま地道となっているので、城域の輪郭はよくわかります。
この周辺の字は「城下町」。平安期にそのような規模の集落を形成するような在地権力があったとは思えないので、戦国期にこの地を支配した宇津氏が上中城を中心とした都市を形成していたと考えるべきでしょう。
宇津氏の本城はこの地より南西にある宇津城ですが、この城は同じ丹波国に松永長頼(松永久秀の弟)が勢力を拡大してきた以後のことなので、初期の宇津氏の拠点であった可能性も考えられます。
『上中城縄張図(現地案内板より)』
『北辺の土塁跡』
『堀跡は地道になっている』
『城域の輪郭はよくわかる』
上中城の周辺地図
市指定史跡。北面の武士であった九郎国眞が築いたとされるが詳細は不明。土塁と城域外周部の痕跡がよくわかる。
http://jibusakon.jp/manhole/kinki-futa/kyoto-futa/keihoku
国道162号線沿いにある弓削駐在所を目指せばすぐにわかります。現地説明板、駐車スペースあり。本数は少ないですが、京都市内からの路線バスも走っています。