島根県の津和野城へ2度目の訪城をしてきました。1度目の訪城が2009年だったので4年ぶりになります(訪城日2013年4月)。最初の訪城時は、山陰城巡りの1城として慌ただしい行程であったので、今回は周辺城跡や史跡を併せて観ようと、現地で1泊をしての訪城です。
津和野城
津和野城は元は三本松城といい、鎌倉末期に地頭として土着した武蔵の吉見氏(源範頼流源氏)によりに築かれました。当初は尾根沿い西南にある中荒城を居城としていた吉見氏ですが、石見国西部の有力国衆である益田氏と並んで、石見国最大の国衆へと勢力を拡大していくにつれて城域も拡大していき、最終的には南北2キロにも及ぶ大城郭となりました。この津和野城の堅固さは、大内氏への下克上を果たして勢いに乗っていた陶晴賢が攻めかけてきた時にでも、100日以上の籠城に耐えたことで証明されています。
毛利氏に属した吉見氏が関ヶ原敗戦後に退去した後には、坂崎直盛(宇喜多詮家・・・宇喜多秀家の従兄弟)が四万石余で入部して近世城郭へと改修します。直盛は吉見氏時代の城域を大幅に縮小し、本城と出丸である織部丸のみを総石垣造りにしています。大手口は吉見氏時代の喜時雨側(西に位置する集落)から現在の津和野市街地を形成する東側へと変更しており、麓(津和野高校周辺)に藩庁を設けています。本城周辺の中世城郭部分には、尾根を区切る三重堀切が何カ所か見られますが、この防御遺構が吉見氏時代のものか坂崎氏が新たに設けたものかははっきりしていません。
『出典:余湖くんのホームページ』
『登城用リフトからの眺め』
『熊の被害で入山禁止になったこともある』
ロープウェイを使わずに中世城郭部分を観ながら登城するのがオススメです。最高所である三十間台を中心に、本城及び出丸である織部丸は地形に沿って石垣のラインが形成されており、中でも人質櫓の石垣は圧巻です。南門から尾根沿いへは南出丸~中荒城へと続きます。
坂崎氏時代の津和野城へは取り込まれていませんが、土塁や竪堀、そして中荒城の遺構である18本の畝状竪堀など見逃すのはもったいないでしょう。ただし、津和野城周辺は熊生息地でもありますので、時間的に厳しいときは安全を考えて行動してください。単独ではなく、できるだけ複数で訪れたほうが良いでしょうね。
『高くしっかりと築かれた石垣』
『人質櫓からの眺め』
『南門櫓から尾根沿いに中荒城へ行くことができる』
津和野城の周辺地図
http://jibusakon.jp/shiromeguri/cyuugoku-shiro/shimane-shiro/tuwano
運賃450円。
中荒城
中荒城は吉見氏の初期の居城であり、津和野城から南の尾根沿いに位置しています。津和野城はこの中荒城が拡張されるかたちで築かれていて、吉見氏が津和野城へ移った後も支城の一つとして機能していました。しかし、関ヶ原合戦後に入部してきた坂崎直盛は積極的に活用しようとはせず、近世津和野城へは取り込まれませんでした。見所としては、主郭のまわりをめぐる18本の畝状竪堀が圧巻です。
『津和野城から尾根伝いにアクセスできる』
『中荒城縄張図(現地案内板より)』
『18本の畝状竪堀が圧巻!』
『石積みも散見される』
中荒城の周辺地図
http://jibusakon.jp/shiromeguri/cyuugoku-shiro/shimane-shiro/tuwano
http://jibusakon.jp/shiromeguri/cyuugoku-shiro/shimane-shiro/tuwano
津和野藩政庁
津和野城を近世城郭へと改修した坂崎氏は江戸初期に「千姫奪還事件」を起こして改易されます。代わって津和野に入部した亀井氏は、津和野城の麓に政庁を設けて藩政を行っていました。現在、政庁跡の大部分は津和野高校の敷地になっていますが、庭園が嘉楽園として残るほかに、馬場先櫓と物見櫓が現存しています。
『馬場先櫓』
『物見櫓』
津和野藩政庁の周辺地図
http://jibusakon.jp/shiromeguri/cyuugoku-shiro/shimane-shiro/tuwano
津和野カトリック教会
津和野は江戸時代には隠れキリスタンの多い地域であり、明治後はキリスト教の布教が熱心に行われています。小京都と呼ばれた城下町の中に建つ、ドイツ風西洋ゴシック建築の津和野カトリック教会(昭和6年築)は、古風な津和野の町並みに溶け込んでいて不思議な風情を出しています。
『津和野の町並み』
『津和野カトリック教会』
津和野カトリック教会の周辺地図
http://jibusakon.jp/shiromeguri/cyuugoku-shiro/shimane-shiro/tuwano
西周・森鴎外旧宅
幕末から明治にかけての洋学者である西周(1829~1897)は津和野藩御典医の家柄で、旧宅には当時の蔵が保存されています。また西周旧宅の川向かいには、西周の親戚でもある明治の文豪・森鴎外(西周と同じく御典医の家柄)の旧宅が資料館として整備されています。
『西周旧宅』
『森鴎外旧宅』
西周・森鴎外旧宅の周辺地図
http://jibusakon.jp/shiromeguri/cyuugoku-shiro/shimane-shiro/tuwano
坂崎出羽守の墓
永明寺には森鴎外の墓や歴代津和野藩主の墓がありますが、その片隅には現在の津和野城を築いた坂崎直盛の墓がひっそりと建っています。大坂夏の陣で燃えさかる大坂城から千姫を救出した坂崎出羽守の恋というのは、古くから講談などで庶民に親しまれてきましたが、現実には幕府に不忠を働いて改易された悪人として、墓石の苗字を「坂崎」から「坂井」に変えて刻まれている始末です。しかし、この「千姫奪還事件」というのは、大坂城から千姫を救出したら嫁に与えるという約束を反故にされたのを恨み、千姫奪還を図って改易されたというのがよく知られる話ですが、時代劇のロマンスとしては面白いとしても現実的には考えにくい話です。
大坂夏の陣において、大坂落城の中で千姫を場外へ連れ出したのは豊臣方の堀内氏久。この氏久がたまたま駆け込んだのが直盛の陣であり、直盛は徳川秀忠の元へと付き添っただけであり、52歳の直盛は妻子もいる分別ある武将。炎の中に飛び込んだり、千姫をねだったのというのは話としては面白いけども、普通に考えれば徳川家康がそのような軽はずみな約束をするはずもありません。
事実としての直盛の改易劇の裏には、千姫の再嫁が絡んでいます。千姫を(偶然とはいえ)救出した功によって将軍秀忠に賞された直盛は、千姫の再嫁先を考えるようにと命じられます。思案の結果、公家への輿入れを提案しますが桑名藩主・本多忠刻の母による横やりが入ります。
忠刻の母は徳川家康の孫(嫡男・信康の次女)であり、将軍家の娘を我が子に貰うことに対してかなり執着したようです。家康としても、非業の最期を遂げた嫡男信康、創業の功臣である本多平八郎忠勝(忠刻は孫にあたる)、そして悲運に悲しむ孫娘(千姫)が婚儀によって一つになるのは願ったりといったところであり、結局は秀忠の意向は無視されて、千姫は本多家へ再嫁します。
面目を潰された直盛は本多家に対して婚儀妨害を企てるも、これが幕府の咎めを受けることになり、柳生宗矩の説得により、坂崎家の存続を条件として自害します。しかし、結局はその約束は守られずに御家断絶となり、「千姫に横恋慕した中年男」という汚名だけが残ったわけです。
幕府にしてみれば、旧豊臣系大名の中でも大大名であった、宇喜多家の命脈を完全に絶つことが出来て一石二鳥といったところでありましょうか。もしかすると最初から宇喜多家お取り潰しの口実を探していたのかも知れません。ちなみに柳生家の家紋である「柳生二蓋笠」は元は坂崎家の家紋であったのを宗矩が譲り受けたと伝わっています。
『永明寺』
『坂崎出羽守の墓』
『幕府を憚って「坂井」と彫られた墓石』
『境内には森鴎外の墓もある』
永明寺の周辺地図
http://jibusakon.jp/shiromeguri/cyuugoku-shiro/shimane-shiro/tuwano
乙女峠マリア記念聖堂
幕末から明治初期にかけてキリスト教徒が弾圧を受けた「浦上四番崩れ」。この時、津和野にも多くのキリスト教徒が流刑となって送られきており、乙女峠の地にて拷問を受けた負の歴史が残っています。後にこの地には、日本で唯一のマリア降臨があったと伝わっています。
施設内には弾圧の歴史がステンドグラスで再現されてあり、また織部灯籠も観ることができるのです。キリスト教徒受難の地にこの灯籠があると「この地も隠れキリスタンの地か!」と思いがちなのですが、「織部灯籠=キリスタン灯籠」というのは何の根拠もありません。もちろん由来となった古田織部(戦国時代の武将・茶人)もキリスト教徒ではないですので誤解されないように(^_^;)
『乙女峠マリア記念聖堂』
『マリア降臨の場』
『織部灯籠』
乙女峠マリア記念聖堂の周辺地図
http://jibusakon.jp/shiromeguri/cyuugoku-shiro/shimane-shiro/tuwano
鉤の辻・鯉のお米屋さん
「鯉のお米屋さん」として津和野では有名な米屋さん。付近は城下町の地形がよくわかり、敵の侵入を阻止するために意図的に曲げられた「鉤の辻」もよくわかります。
『鉤の辻』
『鯉のお米屋さん』
『鯉がいっぱい!』
鉤の辻・鯉のお米屋さんの周辺地図
http://jibusakon.jp/shiromeguri/cyuugoku-shiro/shimane-shiro/tuwano
武家門と津和野藩校
小京都と称された津和野の城下町には、今でも色濃くその面影を残していますが、街中には藩校であった「養老館」や藩主一族で筆頭家老の多湖氏や、同じく家老の大岡氏の武家門が現存しています。
『多湖氏武家門』
『大岡氏武家門』
『津和野藩校であった養老館』
武家門と津和野藩校の周辺地図
http://jibusakon.jp/shiromeguri/cyuugoku-shiro/shimane-shiro/tuwano
http://jibusakon.jp/shiromeguri/cyuugoku-shiro/shimane-shiro/tuwano
鷲舞のモニュメント
津和野大橋に設置されている「鷺舞のモニュメント」。鷺舞とは元は京都の八坂神社で行われていたものを、当時の石見国守護であった大内弘世(1325~1380)が持ち帰ってから約600年間続いている国の重要無形文化財です。京都では早々に廃れてしまったので、現在は津和野にしか残っていません。
『鷲舞モニュメント』
鷲舞のモニュメントの周辺地図
http://jibusakon.jp/shiromeguri/cyuugoku-shiro/shimane-shiro/tuwano
丸山城・高崎亀井氏居館
築城者が不明の丸山城跡には、江戸時代に藩主一族である高崎亀井氏が陣屋を構えていて、現在も虎口や石積みが残っています。
『高崎亀井氏居館には石垣や虎口が残る』
丸山城・高崎亀井氏居館の周辺地図
陶晴賢本陣
天文二十三年(1554年)に大内氏を滅ぼした陶晴賢が、石見国支配への足がかりとして津和野城を攻めたときに築いた陣城が、電波塔工事による発掘調査により見つかっています。この陣城跡は津和野城の南に位置しており、竪堀などが残っていますが遺構の状態はあまり良くはなかったです。陶晴賢はこの陣城を拠点に津和野城を囲みましたが、城主の吉見氏は100日以上の籠城戦を耐え抜いて陶軍を撃退しています。
『陶晴賢本陣から津和野城を臨む』
『陶晴賢本陣の竪堀』
陶晴賢本陣の周辺地図
http://jibusakon.jp/shiromeguri/cyuugoku-shiro/shimane-shiro/tuwano
鷲原八幡宮
全国の神社に流鏑馬の馬場は数あれども、日本で唯一鎌倉時代の流鏑馬場が現存しているのはこの鷲原八幡宮だけです。土塁がとても美しいので是非とも観ておいて欲しい神社です。
『鷲原八幡宮』
『日本で唯一現存する鎌倉期の流鏑馬馬場』
鷲原八幡宮の周辺地図
http://jibusakon.jp/shiromeguri/cyuugoku-shiro/shimane-shiro/tuwano
おわりに
日本100名城である津和野城は非常に見応えのある城跡です。そして、津和野城を中心として形成された城下町・津和野は史跡の宝庫です。しかし、鉄道や車で行くことを考えると、どうしてもアクセスの悪さから無理な行程を組んでしまいがちです。
また萩へ行く途中に寄る人にとっては滞在時間をあまり取れないという声も聞きますが、短時間で通過するにはもったいない場所です。できれば津和野の街へ宿泊して、ゆっくりと見学をすることをオススメします。ただし、津和野城周辺は熊生息地なので夕暮れに強行登城をしたり、単独で奥まで散策するのは避けた方が良いでしょう。