韓国へ倭城を見に行く旅その13は、二度目の倭城遠征3日目の記事になります。
今回2回目となったの第2次倭城遠征は2泊3日の短期訪城で、メインの目的は倭城の中でも屈指の遺構が見られる熊川倭城(ウンチョン・ウェソン)。日本に数カ所残る登り石垣の原点でもある同城は、期待以上に素晴らしいの一言に尽きました。十分に目的を果たして満足した私たち一は、残りの時間を朝鮮式城郭を見学することにしました。
熊川邑城
邑城(オプソン)は行政機関が存在して文官が治める城郭都市であり、大陸式の城壁で囲まれています。鎮海総合高校に隣接する熊川邑城(ウンチョン・オプソン)は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に攻め落とされて、熊川倭城と共に日本軍の駐屯地になっていました。
私たちが訪れた時期には、発掘調査と復元作業が行われており、韓国の歴史研究家である権純康さんのご厚意で見学させてもらいました。権さんのように客観的な史料考証や発掘調査結果を踏まえて歴史を研究されている韓国の方によって、倭城や朝鮮式城郭の調査保存も進められてはいるのですが、現状では政治や外野の誤解も多く、いろいろと難しい問題があるという話も聞かせていただきました。
遺構については、日本軍の駐屯によって改修された形跡は無く、城壁から張り出した「稚城」や円弧の外枡形である「甕城(おうじょう)」、また高麗時代の技術である石垣の根石を外側へずらした組み方など、朝鮮半島独特の遺構が残っています。
『発掘復元作業中の熊川邑城』
釜山鎮城
鎮城(ジンソン)は、武官が治める軍事拠点としての朝鮮式城郭です。釜山鎮城(プサン・ジンソン)は、文禄の役にて先鋒である小西行長が最初に落とした城です。釜山倭城や子城台倭城と混同しがちですが、地下鉄の佐川洞駅を挟んで反対側に位置するこの釜山鎮城が朝鮮側の軍事拠点でありました。
現在、遺構は住宅地に埋没して残っておらず、同城の守将であり、小西行長の猛攻によって戦死した鄭撥(チョンバル)の墓である「鄭公壇」があるのみです。
『釜山鎮城は住宅地に埋没』
『鄭公壇』
おわりに
釜山鎮城を見学した後は、安骨浦倭城や子城台倭城を再訪、最後の晩餐には参鶏湯が名物の「古宮」で韓国料理を堪能して帰路につきました。ここでは書けないご一緒したくうくうさんジャンピング事件や、播磨介さんノートパソコン置き忘れ事件などがありましたが今となっては笑い話です。
ここまで書いた2度の倭城遠征に行ったのが2009年。安骨浦倭城のように港湾開発によって消滅の危機がある倭城や、観光目的や市街地開発のために元の姿を変えていく倭城は今どのようになっているのでしょうか。巨済島(コジェド)に残る倭城や古代の朝鮮式城郭など、まだまだ貴重な城郭があるので再び訪城できるチャンスを伺っています。財布と家族の許可を得るのが厳しいですが(^_^;
『安骨浦倭城』
『チャガルチ市場でのヒラメはオススメ!』
第2次倭城遠征記(終)