戦国時代の中で「軍師」として(実態はさておき)、もっと著名な二人の奇妙な縁の話です。
天正六年(1578年)、織田信長に対して謀反を起こした摂津有岡城主・荒木村重を説得にあたった黒田官兵衛は、村重によって監禁されますが、村重に同調したと見た信長は人質である官兵衛嫡男の松寿丸(のちの黒田長政)の殺害を命じます。これを救ったのが羽柴秀吉の与力であった竹中半兵衛であり、黒田家と竹中家の交流はここから始まります。
松寿丸を匿った場所は?
江戸期に貝原益軒によって編纂された黒田家の公式記録書である「黒田家譜」では、
信長公御憤深くして、諫を用給はず、半兵衛力及ばず、松寿を殺し候由信長公へは申上、ひそかに松寿を我が領地美濃国不破郡岩手の奥菩提という居城に遣しかくし置て、最懇にもてなしける
とあります。しかし半兵衛の居城である菩提山城には数多くの家臣や家族がおり、いくら家臣団に隠匿を命じたところで、その噂を止めることは出来ないでしょう。そこで実際には半兵衛が最も頼りとする重臣・不破矢足(やたり、やそくとも伝わる)に命じてその屋敷に匿いました。
菩提山麓にある家臣団居住地と矢足の屋敷がある五明の地が離れていたのも幸いしていました。この地で松寿丸は幸徳という舞を得意とする小坊主を付けられて大切に養育されました。松寿丸は女装して於松と名乗っていたとも伝わります。
『不破矢足屋敷跡』
不破矢足
『不破矢足(尾形洞霄筆)』
不破氏は南宮神社社家出身で美濃における有力国人であり、矢足はその一族で喜多村十助と言い、斎藤道三の遺筆を預かり(現在も不破家に伝わる)竹中氏の岩手攻略や半兵衛の稲葉山城乗っ取り戦などで抜群の功があった豪の武士であり、元亀元年(1570年)の姉川合戦にて半兵衛の弟である竹中久作の後見として出陣したときに足に矢が刺さりながらも浅井方の遠藤喜左衛門他二人を討ち取ったことから、半兵衛より「矢足」と名乗るようにと言われました。
矢足の妻は半兵衛の舅である安藤守就の妹でもあり、半兵衛にとっては身内でもある矢足の存在は大きかったのでしょう。信頼する矢足に松寿丸を預けた半兵衛の期待に応えた矢足は松寿丸を大切に養育しました。この時の恩を感じていた松寿丸は、黒田長政と名乗った後年に矢足を召し抱えようと申し出ますが矢足はこれを固辞します。代わりに仕えた嫡男の家系が筑前福岡藩士として続いています。他の子息たちの後裔も、竹中氏の重臣や土佐山内氏家臣などとして各地で名を残しています。
『不破矢足墓石』
美談の影で
松寿丸は無事に助かり官兵衛が解放された後は黒田家へ帰りますが、すでに信長は松寿丸の首実検を終えた後でした。その時に信長が見た首というのが松寿丸の遊び相手(伽もか?)であった幸徳であり、松寿丸の身代わりとなっています。幸徳の親は黒田家より年々銀子の扶持を受けますが、幼い子どもを主家のためと差し出した気持ちは辛いものがあります。この時に信長への使者となったのも矢足であり、すべての責任を負って任にあたっていたことがわかります。
おわりに
竹中氏は半兵衛の死後はあまり振るいませんでしたが、関ヶ原合戦などのターニングポイントでは、官兵衛や長政によって助けられて家は存続、嫡流は父祖代々の地にて交代寄合(上級旗本)として幕末まで続いたほか、庶家が筑前福岡藩の重臣として残っています。官兵衛親子はこの時の半兵衛・矢足主従の恩を忘れなかったわけですね。
五明の不破矢足屋敷周辺地図
竹中半兵衛の重臣・不破矢足の屋敷跡で、黒田官兵衛の嫡男・松寿丸を匿い養育していた。