韓国へ倭城を見に行く旅その3は、今回の行程において一番楽しみにしていた西生浦倭城です。
韓国のリゾート地である鎮下(チゲ)に宿泊した一行は、倭城の中でも「熊川倭城(ウンチョン・ウェソン」とツートップと称してもいいほどの遺構が残る、最大規模の倭城である「西生浦倭城(ソセンポ・ウェソン)」に向かいます
西生浦倭城
豊臣秀吉の朝鮮出兵において、東部戦線の総指揮官を任せられた加藤清正が駐屯居城として築いただけに、随所に最新技術を使った広大な城域が残っています。
『石垣』
他の倭城にも言えますが、総石垣造りの城に空堀や堅土塁、登り石垣などを組み合わせるなど、戦国期に各地で発達した築城技術をふんだんに用いていながらもその後の江戸近世城郭には受け継がれず、また近代の開発などによって消滅してしまった織豊期城郭の姿を見ることができるのが、韓国まで渡って見学する倭城めぐり最大の楽しみでしょう。
『織豊期の技術が良く残る』
西生浦倭城最大の見所はなんといっても圧巻の登り石垣!。日本にも伊予松山城や彦根城、洲本城などに残りますが規模がまったく違います。麓の港湾施設と山頂に築いた城郭を登り石垣で連結して一体化する形式の城跡は、その後の日本では消えていったために今では見ることが出来ません。
『登り石垣』
また、登り石垣以外にも大規模な空堀や枡形の虎口、朝鮮半島の築城技術である稚城なども見ることが出来ます。
『空堀も残る』
『港を取り込んで築城している』
『虎口』
『雉城』
そして、この城で注目したいのが天守台西側の虎口。虎口を埋め殺した(塞ぐ)跡があります。急な作業であったのかかなり雑な処理であるのですが、おそらくは蔚山倭城が明・朝鮮連合軍によって急襲されたときに、あわてて作業を行ったのでしょう。蔚山籠城戦での日本軍の混乱を知る場所とも言えます。この場所には、馬出が張り出していたのではないかとの説もあります。
『埋め殺しにされた虎口』
『埋め殺しにされた虎口2』
そして、荒削りながらも扇の勾配を持つ石垣は後に清正が築いた名城・熊本城を連想させます。清正はこの西生浦倭城の築城を通じて日本と朝鮮半島の築城技術を融合完成させ、築城の名手への道を歩んでいったのです。
『扇の勾配』
西生浦倭城だけでもお腹いっぱいだった3日目ですが、後半に予定している倭城もまた素晴らしいとのことで、焼き肉を食べて体力を回復させます(笑)
『絶品の焼き肉!』
この記事は続きます。
西生浦倭城の周辺地図
蔚州郡 西生面 西生里 711
城将:加藤清正