【古代山城】神域?城郭?謎の石城山神籠石を巡ってみた

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 山口県光市にある石城山神籠石は、その多くが北九州地域に集中する神籠石の中で数少ない非九州地域の神籠石ですが、その遺構の素晴らしさは西日本各地に残る神籠石の中でも、トップクラスの素晴らしさです。

 また、同地域は幕末に第二奇兵隊の本陣が置かれており、古代山城や石垣が好きな城郭ファンだけでなく、幕末が好きな人も思いを馳せることができるでしょう。

 

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神籠石とは

 金田城大野城などの古代山城とは違い、日本書記などの史料に記載が全くない築城主不明の遺跡であり、神事に関わる場所であるとの「霊域説」と古代山城だという「城郭説」で論争があります。特徴としては、谷を取り込むように数キロにわたって一辺70cm前後の切石による列石があり、要所に数段の石組みによる城門や水門が設けられています。

 

takarasan-kougoishi『高良山神籠石の列石』

 

 列石内部に遺構が確認出来ない神籠石もある一方で、版築による土塁や掘立柱による軍事施設跡の可能性が強い神籠石もあるなど、研究がすすむにつれて「~神籠石」を「~山城」と名称変更した例も出てきました。

 史料による確認が出来ないうえに、古代山城とは耕造が違うために何の目的で造られたのか謎が多い神籠石ですが、その石積み技術は非常に高度であり、朝鮮半島とは別ルートで伝わった築城技術ではないかと私は勝手に想像していました。

 

 

【神籠石一覧】

名称所在地
女山神籠石福岡県みやま市瀬高町大草字女山
高良山神籠石福岡県久留米市御井町高良山
鹿毛馬神籠石福岡県飯塚市鹿毛馬
御所ヶ谷神籠石福岡県行橋市津積 みやこ町勝山大久保、犀川木山
杷木神籠石福岡県朝倉市林田、穂坂
唐原神籠石(唐原山城)福岡県築上郡上毛町下唐原、土佐井
雷山神籠石福岡県糸島市雷山
阿志岐城(宮地岳山城)福岡県筑紫野市阿志岐
おつぼ山神籠石佐賀県武雄市橘町小野原
帯隈山神籠石佐賀県佐賀市久保泉町川久保、神崎町西郷
石城山神籠石山口県光市石城
永納山城愛媛県西条市河原津
讃岐城山城香川県坂出市西庄町、府中町、河津町、飯山町
大廻小廻山城岡山県岡山市草ヶ部
鬼城山城(鬼ノ城)岡山県総社市奥坂、黒尾
播磨城山城兵庫県たつの市新宮町馬立、揖西町中垣内

 

米田仁氏による時差神域説

現在の定説

 昭和38年のおつぼ山神籠石(佐賀県武雄市)、翌39年の帯隈山神籠石の発掘調査により、土塁の土留め石と報告されたのが今日の定説となっていますが、この城郭説に対して列石を宗教的性格の「神奈備の磐境」とする霊域説には

  • 喜田定吉氏「神籠石とは何ぞや」
  • 久米邦武氏「神籠石は全地球の問題」
  • 白鳥庫吉士「所謂神籠石に就いて」

などがあります。現状は半世紀も昔のおつぼ山・石城山・帯隈山の3カ所の発掘調査を根拠として、「神籠石とは土塁の基礎となる土留め石で版築の基礎」とされているのです。

 しかし、「朝鮮の山城は自然の山石を用いるか、簡単に加工した割石を使うのが普通である」(忠南大学 尹武炳教授)という定説に対して、なぜ神籠石の列石の正面や前面が綺麗に加工されたのかについては明確には証明されていません。古代山城である金田城大野城ではこのような加工石は見られないことから、未だこの論争には決着が着いていないといえるでしょう。

古代山城との比較

 朝鮮式古代山城とは、天智二年(660年)に百済救援のために派遣した軍が白村江にて唐・新羅連合軍に大敗した後に、北九州から瀬戸内海沿岸近くに築かれた防衛ラインの城郭と伝わっています。(下記の表を参照)

 対馬の金田城をはじめとして、各地に今も遺構が残っている古代の山城は、白村江敗戦後の緊張感を表すかのように石垣をめぐらせた堅固な山城となっています。この古代山城が築かれたことは日本書記にも「天智四年(665年)、長門国、大野、基に城を築く」と書かれているのですが、一方で神籠石については記録にはまったく登場しません。

 また、神籠石の軍事上の撰地としても疑問はあります。朝鮮半島の情勢が不穏な中で築かれた古代山城に対して、鹿毛馬やおつぼ山などの神籠石は低地や谷間に築かれるなど、防衛上適地とは言えない場所に造られており、これもまた軍事施設としては説明がつきません。

古代山城一覧

名称所在地
鞠智城熊本県菊池市
基肆城佐賀県基山町
金田城長崎県対馬市
怡土城福岡県前原市
大野城福岡県大野城市
屋島城香川県高松市屋島
常城不明(備後国葦田郡)
茨城不明(備後国安那郡)
三尾城滋賀県高島市
高安城奈良県生駒郡平群町

 

時差神域説

 米田仁氏は、これらの疑問に対して「時差神域説」を提唱しています。御所ヶ谷神籠石のように、列石を伴わない土塁ラインと列石が検出された土塁ラインが二重にあることから、列石を土塁の土留めとは認めずに転用だとしています。

 磨かれた表面や上面を整えるために施された「L字型調整痕」などは、土留めには必要が無いのはたしかです。米田氏は神域を区切る磐境として列石を配置したのではとされています。

 白村江の戦いより少し前の斉明天皇は大規模な土木工事をしたことで有名ですが、そのうちの一つ「岡の酒船石」は、版築で固められた土壇のまわりに表面を磨いた列石を巡らせていたと報告されています。神籠石の列石との共通性から、神籠石の時代が古代山城以前だという証明にもなるでしょう。

 神籠石の列石は土留めのためのものではなく、神域もしくはそれに準ずる場所の結界としての役割を果たしていた可能性が高く、米田仁氏による「朝鮮半島の情勢変化の中で、従来存在した神籠石を急造の山城へと転用した」いうのが時差神域説なのです。

 仮に白村江の敗戦が、私たちの想像以上に当時の朝廷に問題視されていたのであれば、新規の築城だけでなく、すでに存在していた各地の神籠石を城郭へと改修した可能性は十分に考えられるのではないでしょうか。

石城山神籠石を歩いてみる

三国志城から第二奇兵隊本陣跡まで

 石城山神籠石へ行くには石城山キャンプ場を目指せば良いですが、まずは途中にある三国志城(資料館)に立ち寄りましょう。ここの職員の中には、石城山神籠石の城域内に住んでいたことがある方がおられて、昔から伝わる話や資料を入手することができます。地元では城跡ではなく、神域として捉えているみたいですね。ちなみにレイヤー(コスプレイヤー)に人気の地でもあります。

 石城山キャンプ場に到着後は、駐車場に車を停めて随身門から石城神社を目指します。このキャンプ場は幕末の第二奇兵隊の練兵場であった場所です。また、すぐ側に南水門の遺構がありますが、あまり状態は良くありません。

 

【第二奇兵隊】
幕末期に長州藩で結成された長州藩諸隊の一つ。総督は山内梅三郎、清水美作(親春)など。軍監に白井小助、世良修蔵、林半七、大洲鉄然など。幹部の立石孫一郎が倉敷代官所などを襲撃するが、幕府の追討を受けて壊滅、長州藩により処刑された。(Wikipediaより)

 

iwakisan-kougoishi-2『まずは三国志城にて資料をゲット!』

iwakisan-kougoishi-2『石城山キャンプ場を目指せば良い』

iwakisan-kougoishi-2『随身門〜石城神社方向から巡るのが良い』

iwakisan-kougoishi-2『幕末には第二奇兵隊の本陣が置かれた』

西水門から北水門

 第二奇兵隊本陣跡地を過ぎるとすぐに神籠石の特徴である列石が姿を現します。列石は一見しては城郭遺構に見えないので、神籠石として現地を訪れないと後世に整形した石として勘違いしてしまいます。私もはじめて高良山神籠石を訪れた時は「え?これが?」と思ったものです(^_^;)

 奇石である龍尾石を過ぎるといよいよ神籠石や古代朝鮮山城に多く見られる水門に着きます。谷間の水脈をうまく活用しているのですが、神域説を採った場合、この水門はどういう位置づけだったのでしょう?

 北水門は石城山神籠石最大の見所です。残存状況が非常に良く、在りし日の古代山城の姿を見ることが出来ます。

 

iwakisan-kougoishi-5『すぐに列石がお出迎え』

iwakisan-kougoishi-5『奇石も多い』

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iwakisan-kougoishi-5『西水門』

iwakisan-kougoishi-5『空堀も随所に見られる』

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iwakisan-kougoishi-5『北水門』

北門から東水門

 北水門を過ぎると空堀を伴う列石がありますが、神域説を取った場合、防御施設である空堀を設ける必要性は無く、やはり白村江の敗戦後に城郭として整備したと考えるのが自然ではないでしょうか。北門は枡形になっていて、崩れか自然地形か判断が難しいですが竪堀も見られます。北門に関しては明確に防御を意識した構造となっています。

 北門から見張り台への間には列石がかなりの範囲において確認できます。登り石垣ならぬ登り列石などもありますが、城郭遺構と言うよりは神域の石城山を取り巻く磐境(境界線・結界)でしょう。

 東水門ははらみや崩れが進んでいて修復作業が行われています。今回は立ち入り禁止にて行くことが出来なかった東門には礎石が残っています。

 

iwakisan-kougoishi-16『列石を伴う空堀』

iwakisan-kougoishi-16『北門』

iwakisan-kougoishi-16『登り列石』

iwakisan-kougoishi-16『列石は広範囲に現存している』

iwakisan-kougoishi-16『見張り台』

iwakisan-kougoishi-16

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iwakisan-kougoishi-16『東水門』

 

おわりに

 現時点において、神籠石が神域なのかそれとも城郭であったのかについては明確な答えが出ていません。列石は土留めなのか磐境なのか?という命題に対して、石城山神籠石は空堀を伴う列石遺構など城跡遺構の可能性を強く表しています。

 私個人としては、城跡なのかそれとも神域なのかという二者択一ではなく、米田仁氏が提唱している時差神域説というのが、石城山神籠石に残る遺構の説明としてはもっとも適当なのではないかと思います。

 いずれにせよ、九州に集中している神籠石ではない非九州系神籠石としても、また古代に築かれた山城遺構としても、日本100名城に選ばれている大野城や対馬の金田城に匹敵する遺構を見ることができるので、古代山城好きには是非とも訪れて欲しい城跡の一つです。見学には長時間を要するので、しっかりとした装備と余裕のある行程で行くのが良いでしょうね。

石城山神籠石の周辺地図

 公共交通機関だとかなり不便な場所なので、マイカーにてのアクセスが一番良いでしょう。県道160号線の終点が石城山のキャンプ場駐車場となっているので案内通りに一本道で行けば着きます。また、城跡へ行く前に麓の三国志城(資料館)で資料を得るのがオススメです。

 

iwakisan-kougoishi-16『石城山への交差点には目立つ石碑があります。』

神籠石。水門や石積みが良好に残る同城は、古代朝鮮式山城・神籠石の中でもトップクラスの素晴らしさである。
https://jibusakon.jp/shiromeguri/cyuugoku-shiro/yamaguchi-shiro/iwakisan

第二奇兵隊の練兵場跡。

神護寺跡。第二奇兵隊の本陣が置かれた。
https://jibusakon.jp/shiromeguri/cyuugoku-shiro/yamaguchi-shiro/iwakisan

資料館。石城山神籠石の資料が貰える。
https://jibusakon.jp/shiromeguri/cyuugoku-shiro/yamaguchi-shiro/iwakisan

 

車で行く場合、現地の無料駐車場を利用すると良いでしょう。

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山口県
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