山上の石垣なら竹田城よりも高取城だと思う@shinです。
日本100名城や日本三大山城と称されて城好きからの人気が高い大和高取城。多くの人が本丸・二ノ丸周辺から猿石までのコースをたどり、その石垣の素晴らしさに感動します。しかし、その広大な城域は一般的な見学コースの倍以上の空間があり、近世城郭としての石垣や虎口だけでなく土塁や空堀など中世の遺構も含めて見所は多いことはあまり知られていません。先日、この奈良が誇る高取城の全域路破をしてみたのですが、本丸周辺の主郭部を端折っても6時間半、13キロの行程とあらためてその広さを実感しました。1度に全部を紹介するのは無理なので、機会があるときに少しずつ記事にしてみたいと思います。
高取城とは
比高400mの険しい山頂に築かれた高取城は地侍である子嶋氏が拠点としていた小城でしたが、筒井氏と並んで大和国を二分する有力国人・越智氏が子嶋氏を追放して改修をした天文期には本格的な山城として機能していたと考えられます。越智館を居城とする越智氏は、足利将軍家や畠山・細川氏などの中央政争に巻き込まれることが多く、しばしばその城を追われています。もともとは城郭寺院として要塞化していた壺阪寺を詰めの城としていたようですが、筒井氏の椿尾城や十市氏の龍王山城に対抗して高取城の規模を拡大していきます。
織田信長の大和平定により越智氏は滅亡、筒井氏の重臣である松蔵右近が城主となりますが、筒井氏の伊賀国転封にとって豊臣秀長の治めるところとなり、城主も脇坂安治→本田利久・俊政と移り、江戸初期に本田氏が無嗣断絶となった後に植村家政が二万五千石で入部して以後は植村氏が幕末まで続いて廃藩置県・廃城となります(現在の高取町長も植村氏の子孫)。城郭は秀長統治時代にほぼ完成しており、山上の本丸に三層の天守の他に30近い櫓を持つほか、家臣の武家屋敷も全山に配置した広大な城域となっています。近世城郭が山上の要害よりも行政の中心地として平地に築かれていく中で、険しい山上に藩主の御殿や政庁以下、家臣の屋敷までを設けていたのは全国でも珍しいケースであり、山中に残る無骨な石垣の姿は見る者を魅了してやみません。
岩屋曲輪
今回紹介するのは城内二之門より西へ130m程降った尾根上にある岩屋曲輪。近世に岩屋不動が祭られた地周辺は、南北40mと東西160mの空間に数段に分かれた曲輪を形成していて、古絵図には「侍屋敷」と書かれています。
土塁や堀切などの中世遺構は確認できず、越智氏時代の普請では無く江戸期の家臣団居住地としての削平地であったのでしょう。曲輪内はまったくの未整備であり倒木や茨で見学はしにくいですが、武家屋敷の瓦(注1)や曲輪を区切る石段や石積み遺構が見られます。
注1:城跡に残る瓦を勝手に持ち帰ったりしてはいけません。
展望は最高だが藪や倒木で・・・
遺構としては魅力ある高取城の中ではさほど残りが良いというわけではない岩屋曲輪を最初に紹介したのは、この曲輪の先端が最高の展望所になる可能性があるということからです。高取城の展望所としては国見櫓跡が有名ですが位置的には間違いなくコチラでしょう(注2)。ただ、「可能性がある」と書かざる得ないのは、現時点ではまったくの未整備のために倒木や藪で展望所としての期待は出来ないからです。
山上に残る石垣の多くが整備保存どころか崩落の危機に瀕しているのが現状である高取城では、このような無名の曲輪までは予算も人手も足りません。きちんと整備をすれば今話題になっている竹田城を凌駕する屈指の名城だけに惜しい限りです。この岩屋曲輪は倒木や藪を綺麗にするだけでも十分なので、関係機関には期待したいところです。私もこっそりお願いのメールなどを送ろうかと検討中です
注2:現状は危険な箇所もあるので山に不慣れな方にはオススメできません。
岩屋曲輪へのアクセス方法
麓から大手登山道を登っていくと岩屋観音の標識があるのでそこから分岐していきます。岩屋観音の名残である石仏手前に「コの字」の石垣がある周辺からが曲輪になります。ほとんどの曲輪は倒木と藪で覆われているので、見学するにはしっかりとした準備が必要です。
高取城周辺地図
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