長崎県

【対馬で城跡や史跡を訪ねてみた】(2)海神神社・豊砲台・韓国展望台・結石山城

対馬の北部には昭和初期に建造された豊砲台や、豊臣秀吉が朝鮮出兵を行った際に築かれた結石山城や撃方山城があります。古代から国境の島として常に最前線に位置した対馬ならではの史跡です。
長崎県

【対馬で城跡や史跡を訪ねてみた】(1)日本最高の古代山城・金田城

国境の島・対馬には古代から近代までの豊富な史跡が残っています。金田城はそのような対馬の中でも最高の遺構を見させてくれる城跡で、古代山城がどのようなものであったかを知るには最適な場所です。
◎石田三成

【石田三成】三成の娘である辰姫は群馬で静かに眠りについていた

慶長五年(1600年)、関ヶ原合戦で敗れた石田三成は京の六条河原で処刑されましたが、その三女・辰姫は弘前藩二代の津軽信枚へと嫁ぎ、その地は江戸時代を通じて大いに広がっていきました。また、長女の血筋は現在の皇室へとも繋がっています。
鹿児島県

奄美大島(奄美市旧笠利町地区)のマンホール

奄美大島のうち、奄美市(旧笠利町地区)のマンホールは島の周辺に多く棲息しているウミガメをデザインしています。また、島の沖合にあるという竜宮城をも意識しています。
鹿児島県

【奄美大島で城跡や史跡を訪ねてみた】(1)宇宿グスク・赤木名御仮屋

奄美大島は古代より、「境目の島」として日本や琉球などの文化が入り交じっていました。城跡についてもそのような境目の特徴を見ることができます。また、第二次大戦中は南方への拠点として軍事施設が建設されていて、現在もその遺構が島内に散見されます。
鹿児島県

【喜界島で城跡や史跡を訪ねてみた】(3)御殿の鼻・御仮屋・村田新八寓居・城久遺跡・ウフヤグチ鍾乳洞・勝連屋敷・海軍航空基地・戦闘指揮所

喜界島での史跡めぐり初日は、島の外周をめぐって平家の伝承地などを訪ねました。2日目は島の内部にある史跡を訪ねてまわります。 御殿の鼻  初日とはうってかわり晴天となった2日目は、喜界島中心街に近い御殿の鼻から見学します。当時は独立した群島権力があった喜界島は、奄美群島にまで勢力を伸ばしてきていた琉球王朝に最後まで抵抗をした島でした。  琉球国の第一尚氏王朝最後の王となった尚徳王は、なかなか野心的な人物であったようで、明の冊封を受けた後、明や朝鮮だけでなく遠くマラッカやジャワなどまで交易船を出して海外交易を推進します。財政基盤を強化したことを背景に領土拡大にも乗り出して、奄美群島を攻略、奄美島・与論島・沖永良部島・徳之島が早々と降伏する中で喜界島だけは激しく抵抗を続けました。  尚徳王は自ら兵二千、軍船五十隻で島を攻めますが、喜界島の首長以下が籠城した砦がこの御殿の鼻と言われています。当時、島の首長は平家残党の後裔だったともいわれており、伝承が本当だったとしてもここで平家は完全に滅びることになったわけです。また、この場所はノロが集まり祭祀を行う祭場でもありました。軍事拠点と祭祀の場が同じ...
鹿児島県

【蓋】喜界島(喜界町)のマンホール

喜界島のマンホールは喜界町の町章を中心に熱帯魚や珊瑚を組み合わしたデザインとなっています。
鹿児島県

【喜界島で城跡や史跡を訪ねてみた】(2)川嶺グスク・七城・平家森・直線道路・阿伝集落・レーダー基地跡

喜界島北部の志戸桶海岸は壇ノ浦で滅亡した平家の落武者が上陸した伝承があります。また、島内には七城や平家森など平家の公達たちが築いたとされる砦跡も存在します。
鹿児島県

【喜界島で城跡や史跡を訪ねてみた】(1)掩体壕・俊寛の墓・珊瑚のトンネル・大城久・雁股の泉・ムチャカナ公園・平家上陸の地

離島の史跡巡り「喜界島」。古代、日本と海外との境界線と考えられていたのがこの喜界島でした。「鬼介」とも恐れらていたこの島へ奄美大島経由で上陸、まずは俊寛の墓や平家上陸の地などを巡りました。
鳥取県

北栄町(旧由良町地区)のマンホール

昭和・平成と二度の大合併を経験している北栄町は町内に様々なマンホールを見ることが出来ます。旧由良町地区のマンホールは幕末に築かれた鳥取藩の由良台場(国指定史跡)と名産品のスイカを組み合わしたデザインとなっています。
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