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大和の城郭を歩く【古市城・古市高山城・藤原城・窪之庄城・山村城】

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大和の城郭を歩く【古市城・古市高山城・藤原城・窪之庄城・山村城】

 久しぶりに奈良の城巡りをしてきました。今回訪城したのは、中世には国中(くんなか)と呼ばれた奈良盆地にある城跡の中で現在の行政区分では奈良市南東部にあたる地域です。

 この地域は、戦国期には大和の有力国人であった古市氏の支配領域でありました。「図説近畿の城郭Ⅱ」では72番に紹介されている古市城がその居城です。

 

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古市城とその周辺

古市氏

 古市城大和国・五大国衆に数えられる古市氏の居城です。一般的には、筒井氏越智氏十市氏箸尾氏大和国・四大国衆という場合が多いのですが、この古市氏は家格・勢力範囲など先の四氏に引けを取らないと私は思っています。

 現在の奈良市古市周辺にあたる古市郷は伊賀と奈良を結ぶ交通の要衝として、興福寺大乗院の福島市が置かれており、福島市が北へ移転した後も(古市の由来はここから)大乗院の重要拠点として代官が派遣されていました。古市氏の起こりはここからだと推測され、鎌倉時代後期には史料に登場します。

 この古市氏が大和国五大国衆と言われないのはその異端性からでしょうか。中世を通じて守護が武士では無く、寺社である興福寺であったという特異な大和において、国衆・地侍はその衆徒・国民として組織されましたが、中でもそれを表しているのが「春日大社若宮祭・流鏑馬」への勤仕でしょう。

 六党に別れた宮座組織に大和の武士は所属して流鏑馬を交代で務めたわけですが、古市氏のみはこれに属しておらず、また他国同様に半農半武士(大和の場合は半僧侶でもある)の時代に交通の要衝である利点を活かして商業政策に重点を置いており、15世紀後半には居城と城下町を惣構えで囲んだ町造りをしています。これは大和に多く見られる「環濠居館」タイプの城郭と比べても規模は大きく古市氏の先進性が窺えます。

 応仁の乱の頃には、古市胤仙が周辺豪族や一族衆の被官化に成功し、大和国における権力の源である興福寺大乗院を保護するために鬼薗山城を築き、最大のライバルである筒井氏と激しく争います。幕府や畠山・細川両管領家の介入に対して、大和の武士が団結して国一揆を起こす中でも逆に幕府方の有力武士団として活動し、戦国初期の古市澄胤の頃には山城国の支配を進める伊勢貞隆によって守護代に任じられています。

 他の大和国衆が幕府や畠山氏赤沢氏松永久秀の大和侵攻に敗れて没落→山間部に籠もってゲリラ活動を繰り返していくのに対して、時の権力と結びつきが強く、商業政策に長けた古市氏はまさに戦国大名まであと一歩というところまで来ていました。古市公胤が宿敵である筒井順興との戦いに敗れからは次第に家運が衰え、最後は松永久秀と運命を共にして歴史からは消えてしまいましたが、大和の戦国史にその名を刻んだ一族であるでしょう。

古市城

 国中(中世の奈良盆地の呼び方)を見下ろす丘陵地に築かれた古市城は、現在は東市小学校と周辺住宅地によって遺構の確認は出来ません。小学校南のため池が当時の堀だという伝承と、城下町に今も残る道路の形ぐらいでしょうか。城址碑は小学校南西隅にあります(中に入るには許可が必要)。

 城の中心となる曲輪があったのは小学校のあたりで字として「上ノ段」、小学校北にある高円団地周辺には字「古城」が残っています。また、城下の古市郷は環濠集落となっており、江戸期には伊勢藤堂藩の飛び地支配の拠点であった城和奉行所がありました。

古市城の石碑は東市小学校内『古市城の石碑は東市小学校内』

小学校南のため池に城の痕跡を見ることができる『小学校南のため池に城の痕跡を見ることができる』

古市高山城

 古市城の南には、字「新城」と呼ばれる城山があります。尾根続きに支城として築かれた古市高山城であり、遺構が少ない古市城の中では珍しく堀切が良好に残っています。

 この城の曲輪跡からは101基の中世墓が見つかっています。火葬骨が入った土師器羽釜などには被葬者の没年月日などが書かれており、永禄年間(1558〜1570)には廃絶されたと推定されており、その後に新城が作られたと考えられています。戦国末期の緊張した情勢の中で、古市城の拡張が図られたのでしょう。

古市高山城の堀切『古市高山城の堀切』

藤原城

 古市高山城のさらに南に位置する藤原城は、古市氏の被官となった藤原氏(筒井氏の一族・平安貴族の藤原氏とは関係ない)の居城であり、古市城の支城の役割を果たしていました。かつては郭や堀切が残っていたらしいのですが、現状は残念ながら造成工事で破壊されており遺構の確認は難しいです。

藤原城遠景『藤原城遠景』

古市城の周辺地図

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窪之庄城とその周辺

窪之庄城

 古市城を少し南に降ると、奈良盆地でも屈指の遺構が残っている窪之庄城があります。有力国衆であった古市氏と筒井氏の勢力に挟まれて苦しい立場にあった窪城氏の居城で、現在は牛頭天王社(八坂神社)となっています。

 北側の土塁がほぼ現存しており居館をとりまく堀も良好に残っています。本郭と西の郭を区切る幅広い竪堀も見られ、この周辺では見所の多い城です。このような方形郭が並んだタイプの城郭というのは国中(奈良盆地)では珍しいのですが、筒井氏に属しながらも地勢的に古市氏に近い窪城氏が、分家として窪城西氏を興して新たに居館を築いた名残なのですね。

 分家である窪城西氏を古市氏に従属させて、本家は筒井氏の被官となる。中小国衆の窪城氏としては生き残るためには必死だったのでしょう。分家居館であった西の郭の保存状態は良くないですが是非訪れて欲しい城跡です。

牛頭天王社(八坂神社)が窪之庄城跡『牛頭天王社(八坂神社)が窪之庄城跡』

奈良盆地の城跡では屈指の土塁『奈良盆地の城跡では屈指の土塁』

空堀も良好に残る『空堀も良好に残る』

本郭と西郭の間に竪堀『本郭と西郭の間に竪堀』

山村城

 窪之庄城を居城とする窪城氏領内へ楔を打ち込むように存在していた山村城は、古市氏の代官を務めた有力な一族衆である山村氏の居館であり、方形居館タイプであったと推定されていますが、農地や宅地開発によって現状はわずかな堀が残るだけとなっています。

山村城の堀跡『山村城の堀跡』

窪之庄城の周辺地図

おわりに

 大和の有力国衆でありながら、在京の権門に結びついて独自の路線を歩んだ古市氏。支配地域を隣接していた筒井氏との勢力争いの中で、窪城氏のような多くの中小国衆たちが消えていきました。その痕跡は今では奈良盆地の片隅にわずかに残るのみです。

この地域の城跡周辺は道も狭く、駐車スペースも少ない(特に山村城は注意が必要)ので公共の交通機関利用をお勧めします。

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城好きのマンホーラー。日本各地(時には海外へも)の城跡やマンホールを訪ねて旅をしています。100名城スタンプは2冊目に挑戦中。最近は離島の城跡や、琉球王朝関連史跡にはまっています。

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