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【入門・石田三成】(1)序文

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【入門・石田三成】(1)序文

 大河ドラマ「軍師官兵衛」盛り上がってきましたね! 時代考証はともかく、主演の岡田准一さんも素敵ですし純粋にドラマとして楽しんでいます。唯一の不満点は今回の大河ドラマでも石田三成の役どころは、長い間誤って定着している定番のイメージが採用されていることです。全国のミツナリスト(石田三成が好きな人)には歯がゆいのではないでしょうか。

 

 歴史ブームと言われて久しいですし、昔に比べると石田三成をはじめとする歴史の敗者に対する評価も変わってきています。若い歴史ファンを中心とした三成人気も凄いものがあります。しかしながら、歴史を好む人意外での評価は相変わらずのままですし、おそらく今回の大河を見て「器の大きい官兵衛につっかかる小賢しい三成」というイメージは多くの人が持つことでしょう。

 ミツナリストとしてはそれは良くない! もっと多くの人に石田三成を知って貰おうと思い、ブログに三成復権記事をアップしてみることにしてみました。別の場所で書いていた記事の再構築になりますが、筆不精のため超不定期の遅筆になるのはご容赦ください(^_^;)

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はじめに

 石田三成は徳富蘇峰「三百年間、智者からも、愚者からも、賢者からも、昧者からも、憎悪・侮蔑・非難・攻撃の対象となっていた」(徳富蘇峰『近世日本国史』)と評するように、近代に入るまでその評価は低いものでした。関ヶ原合戦において敗者になったので仕方がないことかもしれませんが、江戸時代の御用学者を含めて多くの人が「奸智にたけた野心家」、「謀反人」、「奸邪の小人」などと徹底して三成を辱め続けたのです。

 三成に関する文書というのは、江戸幕府によって徹底的に抹殺されているのですが、他の歴史的敗者に比べてもその徹底ぶりは群を抜いています。「関ヶ原合戦」という時代が変わる戦の敗者となったために、単なる敗者ではなく「新政権の都合」というものまで背負わされてしまっています。

 江戸期を通じて三成を擁護したのはテレビドラマ「水戸黄門」でお馴染みの徳川光圀ぐらいで(桃源遺事)、明治維新以後の日本史学界で西洋式の歴史学が取り入れられた後も、なかなか一次史料という概念が定着しない中で江戸期の軍記物が平然と研究対象とされていました。それも小説家でない「専門の研究者」がです。関ヶ原合戦においては、多くのドラマや小説の元になった旧日本陸軍編纂の「関ヶ原役」でさえ、江戸期に書かれた軍記物などをベースにしており、正確性に欠ける部分は非常に多いのです。

 軍記物というのは平和な江戸時代に書かれたもので、当然その時代の価値観をベースに書かれています。軍記物自体にはたどっていけば真実に当たることも多いので必ずしも参考にならないと言うことは無いのですが、その基本はあくまで「暇な時代に楽しむ娯楽」であるため、誇張やすり替えもまた多いのは仕方がないところです。

 今では一次史料その他による研究もすすみ、少しは三成の名誉も回復されてきているのですが、今度は司馬遼太郎先生やゲームなどの影響で、逆に「義の人」などという訳のわからないイメージを植え付けられしまい、それが一人歩きして「義のために戦った三成様が好き!」などという新たな支持層が登場しています。

 石田三成という人物を考えるときには、まず「奸臣」そして「義の人」という相反する極端なフィルターを外して欲しいと思います。石田三成という人物は奸臣でもなければ義の人でもありません。他の武将と同じく、戦国時代という現実主義の時代をただ必死に生き抜いたひとりの人間なのです。

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三成を辱めたのは家康?

 戦国時代の研究史、さすがに織田信長・豊臣秀吉・徳川家康クラスになると研究の数も多いですが、「歴史は勝者によって語られる」という古今東西の定めの中で、そういった天下人に敗れた北条氏政今川義元などの敗者への扱いは長く酷いものでした。

 石田三成も当然同じ定めなのですが、彼の場合は他の敗者とは別のとばっちりも受けています。歴史には「敗者は悪く書かれる」とは別に「勝者に都合の良い話」がありますが、日本書紀で悪役に仕立て上げられた蘇我馬子もびっくりなほどの、江戸幕府による隠蔽工作が行われています。

 こう書くと、まっさきに頭に浮かぶのが関ヶ原合戦で三成を破った徳川家康。ミツナリストの人が一番大嫌いな人物ですね。しかしながら、戦国時代を生き抜いた徳川家康やその息子である秀忠はそのような姑息なマネはしません。その証拠に三成の子女たちが一人も処刑されることがないどころか、三成の曾孫が徳川家光の側室になっているのも黙認されています。

 では誰がこの「余計なお節介」をしでかした犯人かというと、戦国の空気を知らず平和な時代に生きた江戸幕府の官僚たち。その背景には江戸幕府の国是である「儒教」があります。平和で暇だった江戸時代には「武士道」などという戦国の世では考えられない変てこなものを生み出し、秩序と礼節が大事と広まっています。

 その儒教において最も嫌われることが「覇王」。この覇王という力で乱世を統一する君主を、儒教の祖であり世は徳によって治まるのが理想とする孔子さまはひどく嫌っていました。孔子さまが尊敬していた周公旦こそ覇王を助けて力を誇示した人物にも関わらずに(^_^;)

 江戸幕府の創設者である徳川家康の生き方はまさに覇王。それは必要だったことだし、戦乱の世を治めたのだからその功績は大きい(自身が豊臣政権をかき乱したのはひとまずは置いておいて)ので何のも問題も無い。しかし、平和ボケした幕府のエリートたちや苦労を知らない子孫たちにとっては、自分たちの政権を創った人物が覇王では困るのです。

 だから徳川家康という人物は、世を乱した豊臣政権を正した偉大なる君主でなくてはいけない。しかし、農民(とは言えないが下層の身分)から関白まで登り詰めた太閤さんの人気は江戸期でも高い。そこでやり玉にあがったのが豊臣政権で中心的な役割を担っていた三成というわけです。

 実際のところ、家康と三成が最初から犬猿の仲で対立していたわけではなく、ましてや戦での勝ち負け等々は戦国の習いでそれは三成も家康もわかっていること。しかし、後世の「権現様」を絶対としなければいけない者たちは余計な歴史介入を行い、当然のごとく各大名家における歴史編纂もそれに習います。こうして三成という悪役が仕立てあげられたわけですね。

おわりに

 石田三成と言えば「関ヶ原合戦の敗者」として語られることが多いですが、彼の行った業績は大げさに言えば(言わなくても)、「中世を終わらせた」とも評価できる大きなことであり、戦国の三傑(信長・秀吉・家康)にさえも引けは取っていないと思っています。そのあたりを時系列で紹介できたらなと思いますが、飽き性の遅筆なのでいつ書き終わるかな(^_^;)

三成竹藪
『三成は何を思案しているのでしょう?』

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城好きのマンホーラー。日本各地(時には海外へも)の城跡やマンホールを訪ねて旅をしています。100名城スタンプは2冊目に挑戦中。最近は離島の城跡や、琉球王朝関連史跡にはまっています。

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